【来信】
    先生はERというTV番組をご覧になったことがありますか。私共医者の日常を良く現しています。毎日のように瀕死の重病人や大けがの人を診ているとまさにこの世は不条理と感じます。はっきり言わせていただきます。殆どの病気やけがの奇跡的な治癒はありません。少なくとも私の周りでは見たこともありません。むしろ神癒に委ねてもっと悲惨な状態になった人を私は見たことはあります。
   でも一方、私よりもっと絶望的な状況にあったマザー・テレサがどうして主の愛を信じて疑わなかったのか。奇跡的な事をすることができたのか。今の私には皆目解りません。この問題を解決することが自分の一生の課題です。人間は根本的に不条理な存在であり病気も論理などとは無縁です。そして「死」も「老い」もきっとそうでしょう。世に問題となっている脳死も移植も終末医療も、本人にとってみれば理性とか科学などの世界とは全く別のものでしょう。ただしそれらが問題になってきたのは科学があるからで、この辺が事態をややこしくしています。
   現在の医療の分野で生じている大小の多くの問題は、科学と人間との軋轢(あつれき)の結果です。それなのに、事の本質を知らないマスコミや、「人間」そのものをも知らないどこかの「名医」や、いろんな多くの部外者は、ただ理屈だけで意見を言っています。今まで進歩してきた医学は科学だが、病気も死も理性や科学とは全然別のもので、理性などという、大脳皮質の問題でなく、人間の、いや、生き物としての言葉では言いつくせない全身的な「もの」なのです。医者も患者も家族も、理性や科学を過信し100%正しい医療を追求したり、どんな難問も科学が解決してくれるという幻想をもっているものだから、いろんな間違いや誤解が起こると考えています。

【返信】
(1)
   現代医学に携わる者として、また現実の臨床医としてのあなたの置かれている厳しい現実は、わたしにもわかるような気がします。と言ってもわたしの場合は、診る側ではなく診られる側からの立場からのほうが切実ですが! 神による病の癒しがほとんど意味がないと考えておられることも、医療の現場から観ればそうであろうとよく理解できます。あなたは神癒には否定的であろうと思いますが、通常の医師との対話であれば、信仰と身体論に関する議論はこの神癒問題でうち切りになるでしょう。大学の心理学の教授でも、私が神癒と心理との関係を話題にしただけで、話が全く進まなくなりました。しかし、キリストにある信仰者としては、身体論を考えることが、医療との関わりだけではなくもっと一般的に、とても大事ではないかと思います。私の言いたいことをまとめると次のようになるでしょうか。
   「神癒はありえない」、という現代医学の命題は、私にも十分理解できます。しかし、理解できるがゆえにさらにその先に問題が生じるのを覚えます。なぜなら、たとえ神癒そのものを否定しても、神癒を信じる「信仰それ自体」は厳然として実在するからです。それはなくなるどころか、現在ますます盛んになっています。ここで言う神癒は、「信仰論」ではなく現実に生じている「現象」なのです。ですから神癒がありえるか? ではなく、いったい「神癒」と呼ばれる現象とはなにか? すなわち神癒の是非よりも先に、その「解釈」が問われているのです。
    一昨年神戸のワールドセンターでは、少なくとも5千人の人々の前で、ベニー・ヒン師が祈りをしました。その後で祈りによって「その時その場で」何らかの神癒を体験した人が少なくとも20人、師の呼びかけに応じて壇上に上がって身体のどの部分がどう治ったのかを証ししました。その度に、師は、その証しがほんとうかどうかを、全員の見ている前で実際に体を動かして証しするように指示していました。これは私が参加した集会での出来事ですが、このような集会が、この日だけではなく、日本の聖霊派は言うに及ばず、文字通り世界中で日常的に行われています。ですからこれは「信仰論」ではなく、また神癒の「可能性」の問題でもなく、神癒現象の「解釈論」の問題なのです。言うまでもなく、神癒現象は、キリスト教だけでなく、ほかのさまざまな宗教でも行われていますし、日本の諸宗教でも同様です。
    ですから、「神癒はありえない」と言う場合に、私に言わせるなら、霊あるいは宗教の効果を信じる人たちが、神癒を現実の出来事として、すなわち「現象として認知している」のに対して、医学に携わる人たち、すなわち、「ある現象を現象として認知する」ことのみを拠り所として、それ以外のいっさいの信仰や宗教的な効果を排除するはずの人たちが、その現象それ自体を「現象として認知しない」という、実におかしなことが現実に生じていると思われるのです。神癒現象に関する限り、見える現象よりも見えない霊験を信じる人たちと見える現象のみに重きを置く科学者たちとの間に、「現象の認知」をめぐって立場が逆転しているとさえ思われます。
(2)
   これらの神癒現象に対する説明として、私には少なくともふたつの解釈が可能であると思われます。
(1) 神癒現象は、身体的には全く実在してイナイ。したがって、神癒を体験したと信じている人たちは、自分の身体が現実に疾患を宿しているにもかかわらず、これが治癒したと錯覚している。あるいはある種の精神的な錯乱ないしは催眠状態にある。ちょうど現実に身体に痛みが存在するのに、それが麻酔あるいは麻薬によって感じない状態になっているのと同じように、信仰によるある種の自己催眠の状態にある。
(2) 信仰と祈祷による神癒は、現実に身体に肉体的変化をもたらす場合がある。すなわち、現代の医学的解釈では説明できない肉体的変化が現実に生じている。
   以上ふたつの命題が可能だということです。(1)の解釈では、例えば歩けなかった人が、壇上で自力で歩いたり走ったりする現象を説明することができません。なんらかの物理的な変化が伴わなければ、催眠術だけではこれは不可能であると私には思われます。また数千人の人たちが見ている前で行われているので、これを見ている人たちもある種の催眠状態にあると考えなければならないかもしれません。(2)の命題の場合には、祈祷が必ずしも効果を発揮するとは限らない。したがって、神癒が「生じない」場合がかなりの確率であることを考慮に入れなければなりません。また信仰的・霊的な祈りは、一時的に身体に影響を及ぼして、「実際は治癒していないにもかかわらず」、あたかも治癒したかのように働いて、現実的な現象(仮象)となる「心理的」効果を発揮すると考えることもできます。しかし、レントゲン写真などで精査すれば、現実に身体的変化が生じたのか、それとも心理的な思いこみに過ぎないかは判別できるはずです。
    ただし、ここで「一時的」であるにせよ、病の癒しが現象したこと自体は、医学的にはともかく、信仰的にとても大事な意義を帯びていると思います。なぜなら、そのことは、少なくとも神の御霊が、その人に働いてくださったことを証しする「事象」だからです。この場合に事象は、象徴的な意味を帯びますから「しるし」として理解されます。私は、神の癒しに対する誤解のひとつに、このこと、神癒は、医療の代替えとなるという誤った受け止め方が、神癒を受ける側もこれを外から判断する側にもあると思います。霊的な現象は、本質において象徴的です。だから、神癒が医療の肩代わりをすることではありません。これが誤って判断されると、神に頼る神癒の信仰には、医者の手当は必要ない。それどころか逆に邪魔になるという歪んだ確信を生じる結果になります。当然、これに対しては、神癒は医療の妨げになり、悲惨な結果に陥るという非難が対応することになります。このような誤解に基づく対立をかつて私は現実に体験しました。新約聖書では、「癒し」は「救い」の「しるし」として行われ、かつそのように教えています。聖書は病人を「治療した」とは言わず、かならずその人が「救われた」と言っているのはとても深い意味があります。霊的な事象は、このように隠喩的であり象徴性を帯びていることを忘れるとおかしなことになります。霊的なことを身体的に、身体的なことを霊的に解釈して混同してはならないとパスカルが言ったのはこのことだと思います。もう一つ注意しなければならない歪んだ例を挙げると、病気は神が下された「罰」であるという信仰が現実に存在することです。これだと、医者は「神の罰に逆らう」存在にされてしまいます。
(3)
   私の立場は、(2)の命題に近いと言えます。しかし、この場合には、では現代の医学では説明できないのはなぜか? ということが問われなければなりません。これは現在の段階では、学問的にまだ十分に解明できていないように私には思われます。私が考察できる範囲で言えば、こういう科学的に説明できない神癒現象が実在することをまず立証し、これに対する考察を加えた哲学者に、William James がいます。彼は1898年に、イギリスのエディンバラ大学で行った講義で、初めてこの問題を取り上げました。この講義に基づく論考が『宗教的経験の諸相』と題されて1901年に出版されました。西田幾多郎が、この著書に影響されたこと、この著作からヒントを得て西田哲学の基本概念を「純粋経験」と名付けたことはよく知られています。
   西田幾多郎の「純粋経験」では、現代科学の重要な立脚点である「主体」と「客体」、すなわち主観と客観とを峻別する論理を否定するところから出発しました。主体と客体とが相互に関連し会う「場」が存在する。こういうことを西田哲学は提唱したのです。この提言は彼の最晩年の論文「場所の論理と宗教的世界観」にいたるまで継続しています。西田の哲学は、単なる概念に留まらず、自然科学的な分野をも包摂するものですが、これを解説することは私の知識の及ぶところではありません。ただ、現代の量子物理学で、観察者(主体)が存在するしないによって、量子の運動(客体)それ自体が変化する(粒子か? 波か?)という量子力学の「発見?」がとても興味深く思われます。
   カトリックでは、ご承知のとおり、聖餐のパンとぶどう酒とは、「単なる」象徴ではなく、「実際に」イエス・キリストの肉体に「変化」します。したがって、この場合に信者の食するパンは、現代の科学では市販されているただのパンと全く同じ物理的な存在であるはずの物質でありながら、信者の信仰との関わりにおいて、すなわちその霊的な場において、「別の存在」に変わることになります。ここでは、ある「もの」が存在するその「真の意味」とはなにか? ということが改めて問われることになります。主体と客体とを分離して見れば、他のパンと同じはずの物質的な存在が、主客一如の「場」においては、違った意味を帯びる、すなわち異なる存在になる。こういう前提(信仰)があることに気がつきます。
   マザー・テレサが、死にゆく病人を心からの愛を持って介護することができたのは、目の前にいる病人が、イエス・キリストご自身であるという信仰、イエス・キリストがその人に「化体している」という聖餐の論理が働いていたからだと思われます。彼女には、その病人は、文字通りにイエス様だったのです。これは、プロテスタントにはない信仰の論理です。この意味でのマザーの愛は、単なる理念的な「隣人愛」ではないのです。
   言うまでもなく、ここで問われているのは、「もの」の存在の意味全体に及ぶことであって、特に人体に限られたことではありません。また、こういう「意味論」は、言語学的な範疇に属するから、直接私たちの人体に関連づけることはできないという主張も可能でしょう。しかし私は、新約聖書が言う「聖霊の働き」には、なにかそのような現代の科学的な命題では解決できない働きが含まれていると思っています。
   現代の医療に内蔵されている構造的な矛盾が、このような哲学や信仰論で解決するとは思いませんが、あなたが臨床の現場で感じておられる矛盾は、想像以上に根が深く、現代の医療を含む科学的方法論それ自体の問題にまで関わるのではないかというのが私の見解です。以上、お答えしたことになるかならないか、私にもよく分かりません。しかし、厳しい現場にあって、考える何らかのヒントにでもなればと思います。主にあるご健闘をお祈りいたします。