【来信】
  主を賛美します。信仰的自叙伝「私の場合」12章もホームページ〔著作欄〕で拝読いたしました。
1.「造神話化」について
  大学生の時、東大の授業にもぐって、ブルトマンの論文やら、田川健三氏の講義、柴田有氏のヘルメス文書の講義等にも行っていましたが、大学生なりに最終的に考えたことは、文献批評の概念そのものに対する疑問です。つまり原始キリスト教団は編集を加えてイエスの生涯の事実を見えなくし、ケリュグマ化し宣教のキリストが誕生した、ということなのでしょうが、しかし、その信仰の成立そのものを神からの働きかけと言ってしまえば、簡単にそうも言えてしまうということです。そのようにして生まれた信仰を受け継ぐことこそがキリスト教の信仰であり、人間の救いであれば、一体史的イエスを掘り出していくことにどのような意味があるのか? そもそも史的イエスとは何か? 史的な人間存在とは何か? 誰かにとっての主観的な、あるいは共同主観的な現象学的なイエス、病者や罪人や弟子たちのように赦された者たち、癒された者たちにとっての「イエス」であってはどうしていけないのか? そこまで考えて私は文献批判は「卒業」いたしました。
  その頃に書いた一文に「私とイエス」という短文があり、こんなことを書いています。
「イエスのまなざし。一度イエスの十字架を己と結びつけて考えたものは彼から離れることは出来ない。彼は愛を投げ続ける。お前を愛するとつぶやき続ける。私は彼を振り払えなかった。今、ここにすべての矛盾や疑問に苦しみきしみつつ,ただ一人彼のために私はキリスト者として生きつづけることを決断しよう。とても苦しい。しかし,イエスの愛に応えて行こう。」
  結論的に私は自分に示された史的イエスでない内在のキリストに自分の人生自体を殉じていこう、それがいかに荒唐無稽であるとしても殉じていこうと決心しました。キリシタンの殉教碑めぐりをしたのもこの頃です。私は自分自身の信仰が、もはや何かの客観性や正当性を持ちえるとは思うことは出来なかったようです。自分に与えられた光に殉じていくことそれが信仰を生きることでした。そしてこのまま神に抱えられています。
   文献批判をしながら、信仰をどうにか持っていこうとしている学生は誰もいませんでしたから、非常に信徒として孤独でした。学内の福音派の学生たちのグループでもかなり多くの牧師や福音派の指導者を出しています、彼らとの交わりは得られませんでした。自分の頭で考え知的な作業をしながら、信仰を持つ人は何処を探してもいなかったからです。文献批判をする人たちはもはや信仰を持っていませんでした。だから私の信仰は、狭い信仰でなく揺さぶられても無くならない柔軟な信仰を下さいと主に申し上げていた祈りの答えでありました。

2.個人伝道者について
   先生ご自身が目指してこられたこと、大切にしておられることが少し理解できたと思います。個人伝道者の発想「職業人、伝道者を突き抜けて御霊の愛に貫かれた個人であること」共感を持って受け止めます。個人伝道者という言葉は、組織に対する個人の伝道者という意味、および大衆伝道者に対する個人の魂を追い求める伝道者というように、二つの意味が掛け合わされているのではありますまいか。畢竟するところ、伝道とは愛でしかないのです。大衆伝道の対極にあるものとは、一人の魂を追いかけていくこと、一人の魂を追い求めていくこと、その人がキリストを求めれば差し出すこと、求めないならばただ愛すること、それによって証しをなしていくこと、それでしかありません。職業を持ち、そこにも召命を持ちつつ伝道をしていくこと、自分の生活自体を祈りにすることに徹することです。効率は悪く伝道としての成功は望めないことですが、もしかすると大衆伝道よりも大きなことをしているのかもしれないと思うことがあります。
   伝道できなくても聖霊によって愛することはできます。愛は社会的にも連鎖を産んでいきます。そして相手は私がキリスト信徒であることを知っていますから、キリストに対して開かれます。こんなふうに無数にキリストに対して開かれた人を生み出すことができるのです。見えない働きですが、刈り入れは他人に任せて聖霊の愛の垂れ流しです。
3.聖霊体験者の信仰の看取り
   一人の聖霊体験者の人生を通して、どのように信仰が育っていくのか。それを見極めたい、はぐくみたいという先生の思い、これも共感いたします。聖霊派の人たちに対する教団の牧師たちの決まり文句は、「熱狂的なだけで一生続く信仰ではない」で、これを私は今まで幾度聞いてきたことでしょう。それなら、教団の教会のメンバーはどうか? と今なら反論しますが、確かに大衆伝道、大きな伝道集会、聖霊集会も含めて、そこで信仰を得たり聖霊体験をしたりした人たちの人生を看取ることは、本当は大変な労力を割かれるべき仕事であることでしょう。体験が強烈であるだけに周囲とのハレーションも大きく、それを日常生活と調和させていくことは本人にとっても大変な労力であります。
   聖霊体験それ自体を標語に掲げている教会に入ってしまうことは一番楽な折り合いのつけ方で、個人の問題でなく、組織の教義への同調のせいにしてしまえる分、どれほどか楽です。そういう教会に行っているから、そう信じているんだ、ですみますから。しかし、個人で聖霊を体験しましたと告白するのは、センセーショナルで、場合によってはスキャンダラスでさえありえます。私はまだ、そこのリスクを自分が負っていることを感じています。自分としては上手く折り合いをつけていますが。しかし、社会活動の色の濃い説教をしてもいいのに、聖霊を強調した説教はダメ、というのはフェアではありませんね。
  聖霊体験者の魂の看取りだけでなくおそらくは、クリスチャン個人の魂の生涯を通じた成長の看取りという視点が日本でかけ落ちていることであり、日本でキリスト教の成長しない理由のひとつではありますまいか。ある型にはめて教育する、教え込むのではなく看取ること、信徒教育ではなく、本当の意味での牧会が、抜け落ちているのではありますまいか。これを実践するのが大教会の下部組織であるセルチャーチやミニ集会なのでしょう。

【返信】
   〔造神話化〕では、「つまり原始キリスト教団は編集を加えてイエスの生涯の事実を見えなくし、ケリュグマ化し宣教のキリストが誕生した。しかし、その信仰の成立そのものを神からの働きかけと言ってしまえば、簡単にそうも言えてしまうということです。」とあるのはアーメンです。まさにそこに私の聖書解釈のポイントがあります。ただし、これに続いて、いったい史的イエスの探求に何の意味があるのか? と疑問を呈しておられますが、現代の聖霊運動にまつわる様々な聖書解釈論を雑誌の『ハーザー』などを通じて呼んでいますと、霊的な聖書解釈の視点を理解する人、これを否定する人のどちらの側からも様々な理解と誤解が錯綜して、収拾がつかない状態にあるのを感じます。こうなるとやはり、きちんとした学問的な方法論に立脚した文献批評的な聖書解釈のもたらした功績は大きいと言えます。ちょうど「様式史」と「編集史」とが表裏一体の関係にあるように、「非神話化」と「造神話化」とは、両輪となって正しい視点からする霊的な聖書解釈を導くものだと思います。
   聖霊運動にはフェミニズム的な要素がこめられているのは確かです。原初教会の女性の活動はイエス様の御霊の働きと切り離して考えることができません。逆にこれが衰退していく過程と教会が組織され制度化するにつれて男性の優位が確立する過程とが呼応することになります。
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