【来信】
癒しの賜物についてお尋ねします。乳がんをわずらっている姉妹が、風邪がもとで肺炎を併発し入院しました。先日お見舞いに行ってきたのですが、抗がん剤の副作用が強く出ており、手がぱんぱんに腫れ上がったり、胸に発疹がたくさんでたりしてとても辛そうです。この方に限らず病んでいる方を見るにつけ、たまらなく癒されてほしいと思います。この癒やしの賜物をどのようにして求めたら良いのでしょうか? また私が求めても良いのでしょうか? 聖会に行ったり本などでは聞いていますが、病気の癒やしを直接自分が目撃したことはまだありません。聖書に記されているこの賜物を私は信じたいのです。先生はどう思われますか。
【返信】
あなたの質問にお答えする前に、御霊の賜について知っておいてほしいことが幾つかあります。
(1)御霊の賜は、どれも同じようにすべての人に与えられるとは限りません。神はそれぞれの霊的な能力に応じて、それぞれに異なる賜をお授けになるからです。異言を語ることは、最も一般的にほとんどすべての求める者に与えられる賜です。しかし、これとても、全員に臨むとは限りません。求めない人は、たとえ信仰者であっても異言を語らない場合がありますし、さらに異言とは違った形で、聖霊の働きが現われる人もあります。
これが、預言となるとさらに限られてきます。パウロが言うように、全員が預言することはできません。さらに、人に向かって証しをすることはできますが、説教を通じて人々を教え導くことになると、そうとうの訓練や準備が必要です。もちろん人前で証しすることは誰でもできますし、またするべきですが、集会で説教する能力は、やはり御霊によってその任に当たる人たちに授与されたものです。
(2)神癒の場合もこれと同じす。自分自身の病の癒やしを祈ることは、主を信じる者誰でもができます。しかし、他人の病を癒やす「神癒の賜」は、誰にでも授けられるものではありません。例えば、わたし自身と家族は、自分の病気の時に祈りによって支えられ、また癒やしを経験したことがあります。しかし、私たちには、どんな場合でも、祈ればその人の病気が癒やされるという賜はまだありません。この間、ある姉妹のご主人が亡くなる直前に、あまりに苦しそうなので祈って欲しいと電話で依頼があり、電話口で妻と二人で祈りますと、苦しさが和らいだということがありました。これは「癒やし」ではありませんが、御霊が私たちの祈りと通して働いてくださったと信じています。
(3)以上のことを念頭に置いた上で、癒やしの賜をあなたが祈り求めることは間違っているかどうかということですが、正しい愛の心から主に求めるならば、そのような癒やしの賜を求めること自体は間違っていません。御霊は人の心の深いところまでご存じですから、どんなときにも、私たちの心の願いに応じて、正しい仕方で導いてくださいます。ですから、癒やしの賜が与えられるならばこれはすばらしいことです。しかし、与えられなくてもすこしも気落ちする必要がありません。言うまでもありませんが、神癒を求めることと医療を受けることとは少しも矛盾しません(この件では交信箱をご覧ください)。
(4)悪霊を追い出す「悪魔払い」のような場合は、よほど訓練されて経験を積み、かつ御霊の導きがないと、うっかり手を出すと危険です。それはちょうど深い恨みや罪悪を宿す人に気安く近づくことは、危険な場合があるのと同じです。このような場合には、その時その場で、特にその人への御霊の導きが大事です。
(5)結論として、あなたは、その姉妹の苦しみを少しでも和らげてくださるように、祈ってあげてください。その上で、もしも信仰が与えられるなら、彼女が癒やされるように手を置いて祈ってください。この場合、最も大切なことは、必ず「主イエスのみ名によって祈る」こと、すなわち、あなたが自分の力で行なうのではなく、主の御霊ご自身が働いてくださることを求めることです。動機も結果も主の御霊から発していることが大切です。クリスチャンは祈祷師ではありません。