【来信】
  個人伝道者として私市先生から按手礼を受けたのち、多くの不思議なしるしを体験しました。それは正直に言って日本基督教団の教会で育った私自身の想像をはるかに超えたものでした。聖霊のバプテスマの経験を15年ほど前にして自分の信仰生活が大きく変えられた体験はありましたが、このようなしるしと奇跡を按手に伴って体験させられるとは夢にも思っておりませんで、実のところ何の覚悟もありませんでした。
 私個人は按手の時も「きゅうりのように冷ややか」でした。しかし、その夜ホテルのベットに入った時に、突然自分が何かを貰ってしまったことに気づき愕然としました。自分の内側の深いところから、愛と理解の光というか波のようなものが押し寄せてきて、私を完全に包みました。経験したことのないような強く、そしてやさしい聖霊の満たしでした。私は祈る必要さえもうなく、ただ合掌したまま一晩を過ごしたのです。この強い満たしは約45日ほど継続しました。昼間意識が覚醒している時には、時折マグマのように無意識から強い歓喜が吹き上がってきました。そして夜になって意識が弱くなると、強い愛の光が私を包み込みます。一体私になにが起きているのかまったくわかりませんでした。
 現在は体が慣れてしまったのでしょうか、これほど強くは感じません。しかし、何か辛い出来事があったときなど、その時と同じくらいの強い満たしに「襲われ」ます。常に臨在感はありますが、少しイエス様の御名を念じただけで、私の全身にやさしい波が広がるのが感じられます。集会前に説教の準備などしていて、「聖霊の油注ぎをください」などと言おうものなら、たちまち、頭の上からバリバリッと音がして何かが与えられてしまいます。また、按手後、飛躍的に異言の祈りが増えました。
 このような感覚だけであるならば「私が変になっている」ということですんでしまったことでしょう。しかしながら、それではすまなかったのです。私が執り成しの祈りをしている対象の方々にも聖霊の息吹は確実に伝わっていってしまいました。ご本人のために、私が祈っていることさえもご存知ないのにです。
 もっとも目覚しい事件は友人のAさんの事件でした。Aさんは大学時代の友人ですが、事情があって生きる気力をすっかり失っていました。私は徹夜の祈りを「させられ」ましたし、私市先生やその他の方にもご加祷をお願いしていました。元日に彼女はある山に初日の出を見に登ったのですが、その時に「生きなさい。生きていていいんだ。」という御声を聞いてしまいました。彼女はそれからすっかり心癒され、少しずつですが着実に主に向かって心開かれて来ています。
 また、集会参加者で、祈りを始めて間もないB君から、「祈っていると何か不思議なものが来る。温かいやさしい存在で、それって先生が祈ってくださっているからでしょう。」と突然言われました。三位一体の話もしていなかったので急いで話をし、聖霊の働きについても話をしなくてはならなくなりました。祈られている人々には教会に行き始めてしまった人、キリストを受け入れようとしている人など、上記以外にも5人ほどは出てきました。またあるクリスチャン学生はキリスト者学生会などで主の器として用いられ始めてしまいました。そして8人ほどのメンバーの聖研と5、6人の集会が立ち上がりつつあります。
  またその他のしるしは、聖霊の賜物が体験されることです。一番目覚しかったのはCさんという集会参加者の父が交通事故にあったときでした。Cさんのことで、私市先生宛に相談のメールに書き、それを書き終えることが出来ず「下書き」に放り込んで眠ろうとした時、不意に強い聖霊の満たしが訪れ、「私があなたを愛したようにあなたも彼女を担い抱きなさい」というメッセージが心に強く響いてきました。
 次の朝早く、執り成しの祈りをしていると、今度は「男性が死んだ」「血の海」というメッセージと映像が訪れました。怖くなりましたが、しばらくしてメールを見てさらに驚くことになりました。なんとCさんからメールが来ていて、父親が中央分離帯を越えてきた対向車に突っ込まれ、奇跡的に九死に一生を得ていたのです。対向車のトラック運転手は即死でした。そして彼女は昨夜、父親の味わった恐怖を思って泣きながらそのメールを書いていたのでした。これは聖霊派の本によれば、知識の賜物という種類の賜物であるようで、その後も数度体験されています。
 上に書いたことは体験されたことのほんの一部でしかありません。あまりに多くの不思議なことを体験しつづけ、そのたびに先生に「聖霊体験ってなんだろう」という当惑のメールを書いてご迷惑をおかけしました。本当に感謝すべきことでありながら、同時に当惑しつづけました。どうしてこのようなことが自分に起きてくるのか、理解できなかったからです。按手とは本来聖霊の賜物を賦与したり、強めたりするものでしょうから、本来的なものが本来的に与えられたのだ、ということなのでしょうが、自分が一体何なのか、何に化けつづけているのか、今でも分かりません。
 私は今でも自分が聖霊派の個人伝道者であるとは思えませんし、聖書の読み方にしてもファンダメンタルではなく、ファンダメンタルであったこともありません。文献批評をかじっているので、それなりにそういう文献を踏まえて、なおかつ霊的な読み方をするように心がけています。また大学教員として少しは知恵の木の実を喰らっています。それにもかかわらず、どうしてこのような強烈な聖霊体験が与えられたのか、本当に不思議です

【返信】
 昨年のクリスマスでの按手以来、あなたに起こっている御霊の働き、さらにAさん、それからB君へと広がっていく御霊のお働きを思うにつれて、だんだんと事の重大さに気がついてきました。あなたを含む集会の人たちのみならず、同じく按手を行なったある姉妹に起こったことも同じです。私自身でも、「ある程度は期待」していたこととは言え、本当に驚くほどの御霊のみ業です。ただただ、御栄光を主に帰するのみです。喜びと同時に、これからの主の御霊のみ業の展開を思うと身の引き締まる気がします。
 私が心から感謝したいのは、あなたがそのように主からの深い恵みの御霊のお取り扱いに与っていることもありますが、それと同時に、私たちの御霊への信仰が、このような形で主のみ恵みに与ることができたことなのです。この意味は、ただ私たちのささやかなグループに生じている恵みの賜という以上に大きな意味を持つことが分かってきました。コイノニアのグループに生じているこれらの出来事が、どういう意味を持つのか? それが、少しずつ見えてきたのです。
 そのきっかけは、ある聖霊運動に根ざす雑誌に連載の寄稿を依頼されたことです。この雑誌への寄稿を機に、それまで直接触れることがなかった日本のキリスト教と聖霊運動が急に身近に感じられてきました。その中から見えてきたのは、これもある程度は予期していたこととは言え、現在の日本のキリスト教全体と、その中にあって私たちの御霊への信仰が持つ意味です。
 先端を行く聖書学から見ると、現在の日本の保守的な聖書主義のクリスチャンの視野と最新の聖書学との間の落差は、現代の量子物理学者とニュートンの古典物理学の信奉者(こんな人は一部の「進化論否定論者」を除くならもう日本にはいないと思いますが)との間に存在するほどの落差があります。この事情はおそらくアメリカでも同じで、バートン・マックがこの落差を"staggering" (驚愕する)と嘆いているのももっともです。しかし、長いファンダメンタリズムの伝統を引きずるアメリカのキリスト教と21世紀に向かってこれから発展しようとする日本のキリスト教とでは、事情が全く異なりますし、またそうあらねばならないのです。
 現在の日本では、保守的な聖書主義にこだわる長年のクリスチャンたちよりも、例えば私の大学の同僚たちのように、むしろ信仰を持たない一般の知識人でキリスト教に関心がある人たちのほうが、新しい学問的な聖書学に基づく正しい聖書知識を持っているとさえ言えます。この事態はさらに広がっていく傾向があります。しかも、このように聖書神学を聞きかじった「聖書通」を自認する人たちは、己の「知識」に妨げられて、霊的なことに全く無知蒙昧であるばかりか、キリスト教も所詮は神話に過ぎない「この程度のもの」と高をくくって見下げる傾向さえあります。
 ところがさらにと言うべきか、あるいは、それゆえにと言うべきか、もう一方では、あなたもご存じの通り、聖霊主義にひたすら埋没して、聖書神学も聖書テキストの解釈論も一括して「リベラル」だと耳をふさいで、異言、預言、神癒その他の御霊の働きを追い求める人たちがいます。彼らの聖書観は、アメリカ直輸入の「霊的ファンダメンタリズム」そのものです。知識ある人は霊的な悟りがなく、霊的な人は知識を軽蔑する日本のキリスト教の状態に憂いを抱かざるを得ません。
 カトリックについてはひとまずおくとしても、現代の日本のこのようなキリスト教マップの全体像が見えて来るにつれて、異言を伴う御霊の実際的な働きを体験しつつ、しかも聖書神学をも積極的に取り込んでいく私たちの信仰の有り様とその視界がもたらす重要性を今さらながら意識せざるをえません。ごく少数のミニ集会でありながら、私たちは今大変なところにいる。このことが実感されるこの頃です。現在私は、中学1年生から大学院の高度な研究生までを同時に教えている英語教師のような心境です。その上に周囲では、「日本の英語教育はいかにあるベきか」などと、私から見ればなんとなく「的はずれな」議論が、相も変わらず延々と論じられているのです。例えば大学で聖書を教える時の女子学生の霊的な状態とこの間のあなたの集会でのB君との対話を思い出してください。
 誰も教えてくれない。問題意識さえも理解されない。模範はどこにも存在しない。「ヴェンチャー企業」もいいところです。ヴェンチャーとの違いは儲かる見込みがないことだけですが。「世間を騒がすこの者たちはいったい何者だ。」こうパウロも言われたようですが、どうやら私たちもそういう状況に入り込んでいく気配がします。お互い師なく独り想いつつ祈りつつ歩んでいくしかないのかもしれませんね。「日暮れて道遠し」とか「学は長く人生は短し」とか言いますが、御霊の道は長いです。とにかく歩けるところまで歩いてみたい。今はそんな心境です。これは老人の繰り言でしょうかね。

【再来信】
  主を賛美します。「繰言」拝見いたしました。繰言だなんてそんな、と思います。私のは繰言でしたけれどね。非常に斬新な、オリジナリティーの高い、既成概念を打ち破ったところに先生と我々がいることは確かでしょうね。聖霊体験をする人たちはファンダメンタリストである、というのが既成概念だからです。しかし、本当にそうなのか? イエスさまの十字架の救いを体験するのに、ファンダメンタリストである必要がないのと全く同様に、聖霊体験をするのにはファンダメンタリストである必要がない、ということの証明を、つまり聖霊体験の持つ普遍性の証明をさせられているのかも知れませんね。新しい聖書学等の知見を知識として取り入れても、天地創造をそのまま文字通り信じなくても、「ハリーポッター」や「千と千尋の神隠し」を楽しんでも、なおも聖霊はちゃんと働いていてくださる。しかもかなり濃厚にということでしょう。
 私自身、ファンダメンタルであったことは一度もなく、天地創造をそのまま信じなさい、と御霊に示されたこともありません。荒井献さんの本を読んではいけない、と感じさせられたことも一度もありません。聖霊の愛を感じながら私なりに自由に読んだり書いたり考えたり感じたり出来て、その中で不思議なことも沢山体験させられているからです。神学との関係においても、更に知的、文化との関係においても、聖霊の働きの自由さ、というものが立証されていくのかもしれませんし、そういう意味で大変な重大なところにかかっているのかもしれません。 
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