【来信】
私の知っているある受洗希望の学生が母親の反対を受けています。これは本当に誰でも日本でクリスチャンになる人は通らなくてはならない関門です。一体日本人のこの体質はどこからきているのか、日本という社会での宗教的な寛容を考えていくうえで以下の視点は外せないことであると考えるのです。
先生は宗教的な寛容を大切にしていらっしゃると思います。頭から日本の文化や宗教を否定したりすることは避けなくてはならないと思います。私は歎異抄が好きですし、浄土真宗のお坊さんのお説教を聞くのもいやではありません。原理的なところではそうです。 しかし、この原理的なところで、というのが曲者であり、キリスト教を日本文化や宗教という対等な土俵においてみた場合の議論である、主義主張として対等に並べてみた場合の議論である、つまり個人が置かれている場を考慮しない場合の議論であると思うのです。
実際の日本社会ではクリスチャンは圧倒的な宗教的マイノリティーです。日本社会の主流文化と決して対等ではありません。従って非常に強い同調圧力にさらされています。この圧力に抗するために、クリスチャンが、自らのアィデンティティーを守るために、無意識のうちに米を食べないなど、ある種のエクセントリックな主張や行動を取るように構造的にさせられているという面もあるのではないでしょうか。
日本人の転向は、権力による拷問などの形ではあまり起きていないと言われています。日本人が転向していくのは日常生活に流れる静かな同調圧力、社会的規範による支配であったのです。善意や愛でさえもそのような圧力の乗り物になります。そのような少数者が自分たちのアィデンティティーを守ろうとする場合、どうしても原理的なものにしきがみつき、強い排他的な態度に出がちになります。常にアイデンティティーが脅かされ続けますから、そうした反応をしがちになります。
実は私が入院していた時にも、宗教的寛容を揺さぶられる事件がありました。それは姑です。見舞いに来た折、こともあろうに身延山で祈祷してもらって日蓮宗のお札を持ってきて、枕もとにおいておけというのです。善意は有難いのですが、相手は私がクリスチャンであるということは知っているのです。「本当にありがとうございます。ご心配くださって。でもお気持だけ頂くことにしますね」と言ったら、ムッとしていました。夫がすかさず、引き取って自宅に持ち帰ってくれましたが。
先生、本当に寛容というのは、少数者が多数者の主流文化に対して寛容になることではなく、多数者がマイノリティーに対して配慮することなのではありませんか? 少数者はエクセントリックな行動を取らないまでも、自らのアィデンティティーを死守するためにぎりぎりのところで踏ん張らざるをえません。日本社会にイスラム教徒が増えたら、豚肉を食べなくてすむように配慮するのが成熟した社会ではありませんか? イスラム教徒のほうが歩み寄って豚肉を食べるように努力することではないのではないですか? また、イスラム教徒が豚肉を食べるように饅頭に包んで、善意のボランティアが笑顔で届ける社会ではないのではありませんか? 単一民族幻想に執りつかれたまま、宗教的マイノリティーに対して無感覚で無知で、同調を強いていくような社会が、どういう意味でも世界の宗教的なモデルになるとは思えません。
マイノリティーがマイノリティーとして違う現実感を持って存在している。そのことにすら、気づいていないのが圧倒多数の日本人であると思うのです。ですから、善意や思いやりという名前でそれを知らないうちに踏み潰してしまう。善意であれば何をしてもいいということにはなりません。善意や思いやりを媒体にして転向させ個人の思想的営為を潰してきたのが、転向研究で明らかになったように日本社会の主流文化のやり口であるからです。イスラム教徒でも共存していける社会を作るためには、日本人は自分たちが自明視している宗教性や文化性を意識化し、相対化する作業が必要なのではありませんか? そして同時に内なる排他性を認めなくてはならないのではありませんか?
私は原理的には宗教的に寛容でありたいと思っています。しかし、実際に自分が常にマイノリティーとして脅かされていることを感じています。マイノリティーがマイノリティーの使命としてすべきことは、違うリアリティーを持っている人間がいる、ということを伝えていくことなのではありませんか? もちろん、それがエクセントリックになりすぎないようにしなければ、理解も得られません。日本社会の中で孤立してしまいます。しかし、常に知性も使ってぎりぎりのところで、時には圧力をはねのけ、一時的に人間関係を葛藤的なものにしながらも、それでも語りかけ自分の立場を理解してもらわなくてはならないのではありますまいか。自分の信仰的な意味づけを犠牲にしてまで、嫁として仏事をしてしまっていけないこともあるのではないですか? 黙ってお札を貰ってしまったら、一生自分とは違ったリアリティーの他者が存在していることを姑は感知しなかったのではありませんか。
本当にクリスチャンが日本社会の中で地の塩となれるとすれば、自らの信仰を譲歩するのではなく、さりとて原理主義の持つある種のエクセントリックさに走ることもない状況におかれつつ、マイノリティーとしての自己を多数者に向かってアピールしていくことなのではないですか? そうでなければ本当の意味での寛容で成熟した社会に日本はいつまでもなりえないのではないのでしょうか?
【返信】
(1)大局的に見ると
あなたのご質問にお答えする前に、少し視点を変えて私たちが信仰的にどのような状況にあるのかを見てみたいと思います。私たちクリスチャンは、決してあなたの言うような「少数派」ではないのです。なぜなら、世界にはほぼ20億を超えるキリスト信者がいます。それも中国や韓国をも含めて、世界中に広がっているのです。したがって、世界的に見るなら、私たちは少数派どころか、日本のどのような宗教や宗教団体に比べても、絶対的な多数派なのです。
これに対して、日本の伝統的な宗教や宗団は圧倒的少数派に属します。仏教を除くなら、ほとんどの日本の宗教や宗団は、日本以外の国や地域では、その存在すら知られていないのです。あなたは、日本のクリスチャンのある人たちが、仏教や神社に対して敵対したりする「異常な行為」は、日本人による他宗教への無神経な非寛容性への反抗からでていると言います。つまり信仰の自由に鈍感な日本の多数派に対する少数派キリスト教徒の抗議から出ているというとらえ方をしておられるようです。そういう一面も私は否定しません。しかしながら、私の見方はちょっと違います。日本で現在おこなわれている福音的聖霊運動は、日本だけではなく、イスラム教や仏教などの異教世界にキリスト教を伝えようとするグローバルな伝道精神に支えられています。
日本の聖霊運動もそういう世界的な聖霊運動のうねりの一環としてとらえられていて、それは、良くも悪くも、外国の、特にアメリカの聖霊派キリスト教の圧倒的な支持を背景にしています。現在の日本におけるカリスマ的聖霊運動は、カトリックを含めて、欧米のキリスト教の圧倒的な影響、というより一体感に支えられて日本の伝統宗教に「立ち向かって」います。それは「外国主導」型の伝道攻勢とでも言うべきもので、攻撃を仕掛けているのは、むしろキリスト教のほうであって、仏教や神道は、いわば受け身の側にあるというのが実情ではないかと思います。皇居や神社の周囲をキリストの名を唱えて練り歩く。元旦に明治神宮の参拝の参道で、偶像礼拝を批判する。特定地域の神道の聖域を「呪縛」から解放するために祈祷巡礼行脚をおこなう。このような行為は、世界規模の絶対多数派の力と権威とをバックにして初めて可能なことだと思います。
その意味で、この国での現在の宗教的状況は、日本の他の分野、例えば経済での企業買収や金融界での銀行再編成、大学でのアメリカ基準の競争原理の導入などと軌を一にしている面があると言えます。今や日本古来の伝統的な思想や霊性や文化は、この「グローバルスタンダード」の攻撃の前に脅かされています。現在の日本の企業や銀行は、欧米の世界基準からの攻撃に必死に対応しようとしてもがいていて、当然そこには、英米主導のグローバリズムへの反感や非難や怨嗟の声も出ています。外資の日本でのやり方があまりにえげつないと悲鳴と抗議の声をあげているのは、日本の側です。私が日本的霊性への寛容を主張しているのは、まさにこのような認識に立つからです。それはどちらかと言えばローカルな日本の伝統的な霊性に向けられる世界規模の霊的な「クルセード」運動に対して、「少数派から多数派へ向けて」発する視点に貫かれています。かつて内村鑑三が『聖書の研究』でやったように、できれば、これを英語で書きたいぐらいです。
(2)国内から見ると
ところが一方で、国内に目を転じますと、事情は全く異なります。そこでは、あなたの言われるとおり、私たちクリスチャンは圧倒的に少数派です。そこには「マイノリティーがマイノリティーとして違う現実感を持って存在していることにすら、気づいていないのが圧倒多数の日本人であると思うのです。ですから、善意や思いやりという名前でそれを知らないうちに踏み潰してしまう。」という状況が日常におこなわれています。ここでは多数派と少数派とが完全に逆転します。だから、私たち日本のクリスチャンは、多数派・少数派の二重構造の中にいることがわかります。
私もあなたの感じている脅威はよく分かります。そういう宗教的無神経さとローカルな文化ボケに危機感を抱いて、闘っているのは、たとえば私の信友であるU君のような人たちです。日本キリスト教団系の「天皇制日本社会」へのたゆみない闘いは、まさに明治以来、少数者の権利を守ろうとする「信仰の自由」の闘いであり、現在では、国旗・国歌での教育現状への政府による押しつけへの抵抗運動となっておこなわれています。その意味で、彼等が日本社会の現状、特に政府・行政のあり方に批判的であり、靖国問題の提起も、政教分離に基づく信仰の自由(これこそ日本国憲法の精神!)から出ているものです。ちなみに、私が上に述べたような聖霊運動と日本的霊性との関係を論じた講演に対して、天皇制文化と闘っているある日本キリスト教団の牧師さんから批判の便りをいただいたことがあります。彼の視点は、まさに国内少数派のキリスト者が、私の世界的な規模での視野に対して抱く「誤解」と「危惧」に根ざしています。
(3)どう対処するのか?
このようにみてくると、私たちは「少数vs多数」の二重構造の中に居ることが分かります。実は、こういう二重構造を私は思想的に体験したことがあります。それは私がある左翼系の大学にいたときです。当時その大学は、共産党の牙城であり、日本という資本主義社会の真ん中に孤立した共産党的な社会主義世界でした。私は、その中で「信仰の自由」とか「霊的な自由」を考えていたのですから、資本主義社会の中にある共産主義社会の中にいるキリスト教的自由主義者、という立場に置かれたわけです。私の感じた大学内での息苦しさは相当なものでした。ところが今では、その大学は完全に変わって、当時の雰囲気はまったくありません。こういう日本社会の変わり身の早さは驚くと言うよりあっけなく、そこには空しささえ感じます。その当時「少数派」であった私でさえ、バカらしくなり情けなくなるほどの変わり身の早さです。日本人の思想や宗教性は、どうしてこうも底が浅いのでしょうか? おそらくこのうすっぺらな底の浅さは、あなたのいう少数派や異なる宗教への無神経さとどこかでつながっている。ひょっとすると表裏をなしているように私には思われます。
あなたが実感している「抑圧」は、これを受ける私たちには確かに脅威となりますが、一歩退いて「外から見ると」、そういう事実さえ意識できないほどに無知な日本人にとって、これは相当に危機的な状態だと私は見ています。少なくとも私たちは「脅威」を意識し、またその置かれた状況を把握しています。ところが、そういう無知な日本人は、自分たちが何をしているのかも、またどういう状況に置かれているのかも全く気づかないのです。現在の日本は、霊的なアイデンティティにおいて、相当危険的な状況にあると言えます。この二重状況は、パウロが、ユダヤ人キリスト教徒には異邦人への寛容を説き、異邦人には、旧来の異教的慣習からの脱却を説いたのと事情が似通っていると言えます。真理というものは決して単純ではないのです。「無知」と「無神経」は、時にはその人にとって恐ろしく危険である。このユダヤの考え方は正しいと思います。
私が聖霊派やカリスマ的キリスト教の人たちに日本人の霊性への「寛容」を説くと同時に、日本人には、「信仰の自由」を訴えるのはこのような二重性からでています。霊的な真理、すなわち「福音的霊性の真理」、これは決して単純ではありません。ですから、私は自分なりの「寛容な信仰」に確信を抱いてこれを貫こうと思います。多数派に無条件に与して、少数派に向かうのではなく、少数派への配慮を含みつつ、しかも国内では、時には断固として無神経な信仰の自由への蹂躙と闘う。この姿勢が大切だと思います。外に向かっても内に向かっても、確固とした霊的な信仰を抱いて歩む力の源泉は、この真理の御霊にこそあると私は信じています。それだけでなく、私は、少数派に属する日本人の霊性への理解こそ、世界的多数派のキリスト教に新しい霊的な展開をもたらす真理が含まれているという確信さえ抱いています。
こういう私たちの信仰の有り様は、なかなか理解してもらえないかもしれません。しかし、姑さんのしたことに対して、ご主人があなたに配慮を示してくれたのは、身近にいてあなたの信仰の有り様をそれなりに感じ取っているからではないでしょうか。基本的には、こういう複雑な宗教状況に対するマニュアル的、あるいは教義的解決策はないと思います。一人一人の個人が、その時々の状況のもとで、それぞれに御霊の導きに応じて対処する。これが、最も確実で、しかも効果的な対処方法であると思います。「知恵の御霊」と私が言うのはこういう現状に根ざしています。律法や宗団や祭儀では解決できない日常の個人個人に課せられる状況に対処できるのは、この「知恵の御霊」しかないと思うからです。だから大事なのは、自分に与えられている御霊の導きとそこに開ける霊的展望に確信を抱き、これを信頼することです。その意味であなたの取った態度は主のみ前に正しかったと思いますよ。私が聖霊派やカリスマ的キリスト教の人たちに向いては日本人の霊性への寛容を説くと同時に、一般の日本人には、信仰に自由を訴えるのはこのような二重性からでています。