【来信】
  PTSD(Post-Traumatic Stress Disorder)〔心傷ストレス後遺症〕というのは、通常でない心身の安全が脅かされるような状況を経験した後、それに似たような状況に出逢ったりすると心身の過剰な反応が起きたり、不意にその状況を思い出して恐怖したり、悪夢に悩まされたりし、その結果社会的な活動等の範囲が狭められてくるような結果が生じてくるものです。この場合、被害状況を急激に思い出して心理的生理的反応が出たり、抑うつ症状が起きたり、周囲との隔絶感に苦しんだりすることがあります。単なる病気であるならば感じないような切なさやるせなさを感じ、せめて加害者たちにわびて欲しいと感じます。不意に悲哀感に襲われて泪が出ます。また加害の本人たちとすれ違う時に恐怖が横切ります。
  生物学的にあるいは心理学的に人間と言う種であるならば、聖者にも俗人にも食欲があるように、これらを感じないことは無理だと思います。しかし、これらに支配されないことは祈って委ねること、そして聖霊のもたらしてくださる歓喜と召命を与えられた喜びに支えられることによってかなりの程度可能と思います。
【返信】
(1)
  わたし自身も仕事の上でストレスをかなり体験しています。最近の日本では、不況による倒産やリストラで、中年男性の自殺が激増しているとのことです。若者から老年まで、日本はストレス列島です。ただこの頃は、そういうストレスを外的な要因から切り離して、自分自身の内面の問題としてとらえ直すことに努めています。一般的に言う、ストレスというのは、社会的要因と言われる外因、あるいは他者から起因するという見方を私も長らく取っていました。しかし、そういう外面からの要因に心を奪われている間は、なかなか自己の内面での問題の解決につながらないことに気づくようになりました。人はそれぞれ意図的に、あるいは意図しないで、私たちにストレスを感じさせるものです。たとえ意図的にしたことであっても、当の本人は、私たちが実際にどれほどの力でそれを感じているかまでは計り知ることができないものです。彼、彼女たちは結局「自分のしていることを知らない」状態で事を行っていると言えましょう。
  ですから、そういう外的な要因を今一度自分の中で「内面化して」、外からの働きかけから切り離す必要があるように思います。これは、私たち自身が意識的にすることですが、それは、御霊にある自分を洞察して、霊的な仕方で対処することによって初めて可能になると思います。ちなみにこれには、相当に高度の霊的かつ知的な訓練を要します。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソ人への手紙6章12節)というパウロの言葉は、今では非神話化して解釈される傾向にありますが、それほど簡単に「現代化」できないのではないかと考えます。
  自分に働くストレスを内面化して、そこに働く力を霊的に深くとらえなおすことで、問題をひとまず外界からの要因から切り離して、これを「悪しき霊」の働きとして、すなわち自分自身の内面に働く霊的な問題として認識しなおすほどに、御霊にあってこれに勝つ力の働きが容易になるように思われます。「霊的な見方によって霊的なことを解釈する」(コリント人への第一の手紙2章13節)とありますが、このほうが聖書的に見て的確な対応だと思うのです。ちょうど、ペトロからのイエスに対する人間的な意見をイエスが「サタンよ退け!」と一喝したことに例示されているようにです。言うまでもなく、ペトロ自身は決してサタンではありません。しかし、イエスの内には、それがサタンの誘惑と感じられるほどに強い力で働きかけていたことが洞察できます。
  このように問題を「悪の霊」の働きと見る視点は、他人を悪魔化して見たり、己が悪霊にとりつかれているとする視点とははっきり異なることに注意してください。むしろ逆に、人を憎まず、己を客観化するには、このほうが正しいやり方であると言えます。パウロが、自分の内に働く「罪」が「自分自身から出たもの」ではなく、「罪それ自体の働き」であるとローマ人への手紙(7:20)で判断しているのもこのような視点からでしょう。ただしこの見方は、霊のことを悟らない人から見るなら誤解を生じやすいのも事実です。「悪の霊」に関して提起されている様々に歪曲した考え方や見方は、そういう誤解や曲解に基づくのではないでしょうか。
  このように内面化するときに、逆説的に、初めてそのストレスを自分の内面で「客観化」してとらえなおすことができます。つまりその実態、すなわち問題の「霊的な正体」を深く見極めることができるのです。この段階で、もはや外界は全く関係がありません。もっともこのように、自己の内面に働く悪の正体を「見極める」こと、これ自体がやはり祈りと御霊のお働きの助けなしにはできないと思いますが。
(2)
  ただしこの段階では、その悪に何とかして自力で勝とうとする意識が強く働くのも事実です。己の自信や強がりや恨みや自己判断から生まれるこのような「肉的な働き」への誘惑は相当に強いものがあります。パウロが、「血肉」と言って戒めたのもこの点を指しているのでしょう。これには他人という「血肉」だけでなく自己という「血肉」も含まれます。私たちは自分の問題を御霊によって指摘されたときに、それの解決を御霊ご自身にお委ねすることをせずに、自力で取り除こう、あるいは何とか自分で解決しようという焦りを覚えるものです。医者に病気を診断されたら、その診断した医者に解決をも任せなければならないのに、診断の結果だけを受けて、解決は自分で行なおうというわけです。そういう誘惑にあえて逆らって、己を御霊の執り成しに全託し、あるがままそのままで、あえて内面化された「悪の霊」に逆らわず、そのままの自分を主の御霊に導かれて委ねるときに、不思議に悪の働きが己の内面から取り除かれていく、という経験を幾度となくさせられてきました。もっとも、その間にも結構悪戦苦闘しましたが。あえて「理論化?霊論化?」すれば、こういうことになるのでしょうか。なんだか、禅の「十牛図」の境地に通じるような話になりました。確かあの絵では、人が「自我」という牛に引きずられるようにして山へでかけますが、帰るときにはその牛にまたがっている姿が描かれていました。自我に引き回されて、これをコントロールできないもう一人の自分が、帰りには、自我にまたがってこれを乗りこなしているというのが、この図の意味だろうと私なりに解釈しています。ただし御霊にある世界は、この図とも少し違いますが。

【再来信】
  交信箱拝見しました。PTSDや鬱など、どんなに信仰があっても病気をして死ぬのと同じように、やはり心も病むと思います。大震災に遭えば、そして肉親が自分の目の前で殺されたり、自分自身が突然だれかに殴られたりというときには、聖霊体験があっても、正直病むと思います。心は心であっても、非情な脳のメカニズムとして規定されているところもあります。ですから霊的克己で打ち勝てる部分と、そうでない部分があるように感じます。心が病んでも病みつつも、それにとらわれないこと、それを抱えていられる力、その影響力を小さくする力は祈りによって与えられると思います。
  しかし先生が仰ることで、「委ねる」ということが人間には難しいのです。個々のクリスチャンは信仰の歩みの中でまちまちの段階を歩いていらっしゃると感じます。ですから私も、自分の考える「委ねる」と先生の言う「委ねる」が同じか、違うか分かりません。自分の辛さを主に訴えたなら、それは委ねることになるのか?辛いです。どうにかして下さい、と泣きながら祈れば委ねたことになるのか? それでも御心のままになさってくださいと無理して言えば委ねたことになるのか? 自分の弱さはどうにもならないけれども、もっとも良くして下さることを信じてお任せします、といって全托しえてはじめて委ねたことになるのか? 結果が良くならないことも含めて、いつまで苦しんでもいいと全てを明渡せてはじめて委ねたことになるのか? 神様と四つにくんだ経験がある人ならおそらく祈りの中で、すべてのプロセスを通ることになるでしょう。しかし、四つに組めない信仰的な「詰まり」のあるクリスチャンは、先生が想像なさる以上に多いと思いますよ。

【再返信】
   私の言いたかったことは、確かに分かりにくいだろうと思います。あなたの言うように、心の病気であること、病気である以上は、それぞれにおかれた状況で辛いこと、信仰があろうがなかろうが、御霊を宿していてもいなくても、人間としての心の苦しみが基本的に変わらないのは全くその通りです。そのことについては何も申しあげることがありません。ただ、私が言いたいのは、そういう辛さや苦しみは、「自分の内面での」苦しさ辛さであり、その限りでは、私はあなたの言うことに全く同感です。しかしながら、問題はその辛さや痛みが直接「外部からの働きかけ」に起因する場合に、少なくとも、その「外からの」要因をある程度遮断する、あるいはこれをやわらげることができないだろうか? これが私の抱いている問題意識です。人間という「生き物」は、犬や猫やネズミのように、外からの刺激に対して条件反射的に反応せざるを得ない生物なのでしょうか?
   確かにそういう部分があるのは事実ですが(人間は動物ですから)、しかし、祈りと御霊の働きによって、ある程度は、そのような衝撃に対して自己をコントロールできるのではないか? たとえ倒産や疾患によって、自殺や絶望に追い込まれそうになっても、そういう外的要因を「内面化」し、内面化を通じて自己の内で制御しやすい姿へもっていくことができるのではないか? 少なくともそういう方向へ努力することができるのではないか。そういうことを考えています。もっともこれとても、かなりの霊的な訓練を経なければならないだろうし、外からの「暴力」があまりに強いと、人にはおのずから耐えられる限度があるとは思いますが。
   「委ねる」は「信じる」と同じくらい表現しにくい言葉です。私は、「委ねる」第一歩は、御霊にある祈りにの中で、自分自身の偽らざる気持をしっかりと認識する、その実体に御霊にあって気づかされる、あるいは「発見する」ことから始まると思います。このようにして、御霊にあって自己の傷や心の病を「発見させられて」からも、その傷や辛い意識を「自力で」解決しようとはせずに、そのままじっと動かない。自分の罪、傷、恨み辛みをじっと見つめつつ、しかも静かな心で「御霊にある自己」の内に働く力を見守るというか信じてそのままじっと耐えているようなところがあります。すると、段々と薄皮を剥ぐように、その傷や悩みが和らいで取り去られていくような感じがします。
   この場合の心は、決して「委ねる」という言葉からしばしば誤解されるような「受け身」「忍従」ではなく、問題を積極的に御霊の主へと「向かわせる」意図を意味しています。あなたが「委ねる」とは、どういうことを意味するのかとあげているすべての心的な行為は、この意図によって一貫されているように思います。しかしながら、とっさの場合、あるいは全く予期しなかった問題や悩みが生じた場合、私たちは「自己喪失」に陥って、衝動的な行動に走りやすくなります。いわゆる「自分を見失う」状態です。こういうときにこそ、御霊の導きによって「自分を取り戻す」ことがきわめて重要だということです。自殺の一歩手前で何かのきっかけで自殺を思いとどまったり、犯罪に走ろうとして、ふと己の行動に気づいて最後の瞬間に思いとどまったり、例を挙げればきりがありませんが、このような心の有り様は、外部の悪い働きかけから、あるいはこれによって生じた衝動から、ひとまず自分を切り離す、そして悩みや苦しみを己自身の領域の内に内面化する、こういう心の働きがどうしても必要だと思うのです。「心頭滅却すれば火もまた涼し」とまではいかなくても、このように、外からの力を自己の有り様から切り離してみる視点が、霊的な問題意識とこれによる解決の出発点になると思います。これが確保されることが重要なのです。この姿勢は、さらに一歩を進めて、自分の内面の心の傷それ自体への対応にも有効ではないかと私は思い始めています。しかし、この問題は簡単にはいかないですね。もう少し煮詰めていかなければならないと思います。
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