【来信】
私は宗教的にずっと形式にこだわらないところに身を置いて信仰生活を送ってきたつもりです。そこで、洗礼について、もう一度私なりに聖書ではどうなのかを調べてみました。イエスさまご自身も水の洗礼を受けておられること、また使徒行伝では聖霊のバブテスマを受けた信徒に対し、あとで水のバブテスマがなされている記事もあることなど、そして、先生ご夫妻が水のバブテスマは必要だとの啓示を以前受けられたと聞いたことも合わせ考えますと、洗礼を受けることがやはり必要なんだとの結論に至ります。イエスさまを受け入れ信じているのだから何も考えずに受けさせてもらえば済むことですけれど、やはり積極的に受けようとするまでの確信がありません。その辺を教えていただきたく存じます。
それと、私が洗礼を受けた以上、人に対して「形式はこだわらなくていい」とは言えなくなってしまい、今までの信仰姿勢がすっかり変えられてしまうような気もします。また、「良くわからないから受けないより受けておいたほうがいいと思う」では、説得力がなく、今後伝道するにしても力にならないような気がします。以前集っていたところの人の中で「洗礼はユダヤ人が対象じゃないかしら」と言う人もいました。滅多にその人たちとは出会いませんが、本当に洗礼が必要ならば、これからはどのようにその必要性を説いたら良いか苦慮します。是非必要性をお教え願います。
次に、聖餐式についてですが、洗礼を受けた人間だけが参加できるというのはどこからくるのでしょうか? 私はもともと聖餐式はカトリック教会の儀式だという誤った認識しか持っていませんでした。聖餐式の言葉そのものは聖書にはないように思いましたので本などで調べましたところ、最後の晩餐から来た儀式とのことで、イエスさまを受け入れ信じている弟子と称する洗礼を受けたものが唯一受けられる儀式であることもわかりました。その辺を是非教えてください。「聖霊のバブテスマを受けた。形式にはこだわらない」とする考え方では真実、弟子とはみなされないのでしょうか。何故そのような厳格な区別があるのでしょうか。4〜5年前に自宅近くのカトリック教会の日曜礼拝に出席した折、差別とまではいかないものの、「洗礼を受けていないものは絶対聖餐式に参加しないように」と言うような冷ややかな区別を感じさせる神父の言葉を聞いて、随分居心地の悪い嫌な思いをさせられました。そういう形式的な儀式があることと聖餐式に対するイメージがその時以来悪いものとなってしまいました。ちなみに私は確かに聖霊体験はしたけれども、異言がはっきりと出ていないので、聖霊のバブテスマを受けたかと問われた場合、明確に答える自信はありません。洗礼を受けずとも神様に繋がっているようには思えますが、やはり弟子にはなり得ないのでしょうか。また、最後の晩餐の時にいた12人の弟子達は皆洗礼を受けていたのか、詳しく聖書を読みきれていないのでどうなんでしょうか? 万一、あのユダだけが洗礼を受けずにいた弟子だったとかの事実があったとしたら堪りません。
【返信】
メールを読ませていただきました。あなたが出された数々の疑問点は、私にもよくわかります。
第1点、信仰を持っていれば必ずしも洗礼を受ける必要がないのではないか? そういう形式にこだわる必要がないのではないかという点についてお答えします。確かに、イエス様によって救われるためにはイエス様を信じることだけが求められているのであって、洗礼を受ける、受けないは直接その人個人の救いに関係がないとも言えましょう。例えば、内村鑑三の流れをくむいわゆる無教会と言われる集会では、洗礼も聖餐式も一切行なってはおりません。私の恩師である小池辰雄先生もそのような考え方でした。また私の友人にもそういう考え方の人たちがいます。しかし一方では、信仰が与えられたからこそ洗礼を受けようとも言えると思います。一般の教会ではそう教えられます。信仰を与えられているからもはやそれ以上洗礼という儀式は要らないと考えるのと、信仰が与えられたのだから洗礼を受けようと考えるのとは、信仰では共通していても、そこから導き出す結論は正反対になるわけです。
信仰が与えられたから洗礼を受けようとするのは、内面の信仰を「形に表す」ことです。これは例えば、結婚式と比較することができるでしょう。事実上結婚生活に入っているのだから結婚式を挙げる必要がないと考えるのか(日本では式を挙げなくても役所に届けを出しさえすれば、法的に夫婦になれるはずです)、事実上結婚生活に入ったから結婚式を挙げようと考えるのかの違いに近いかと思います。後の考えの人は、自分たちの結婚の出来事それ自体を式として「形に表す」意図から出ています。形に表すのは、自分たちの結婚を自分たち自身ではっきりと体と行為で確認することを意味します。それと同時に、ただ自分たちのことだけではなく、周囲の人たちに証しして、はっきりとその出来事を「認めてもらう」ことをも意味しています。このために親族や友人を式に招くのは、結婚式の大事な目的です。言うまでもなくその式は、ふたりが結ばれた以上、夫であり妻であるとして、それ以外の人との性的な関係を断つことを意味します。
このように、洗礼を受けるかどうかは、精神的あるいは霊的な内面の出来事を形に表すことが必要かどうかという問題に関係してきます。ただし、心の内面は、必ず何らかの形となって外に現われます。洗礼を「受けない」ことさえも、この意味から言えば、「形にこだわらない」ことを外的な態度によって人に証しすることだと言えます。おそらく無教会の人たちは、形骸化した教会の洗礼に対する批判の証しとして、意図的に洗礼をさけるのだと思います(ただし無教会は、反教会ではありませんから、教会の行なう洗礼を廃止せよと言っているのではありません)。このように、式という形はいわば心の中に起こっていることの「しるし」になります。もし全くしるしがなければ、その人の内面の信仰は、そのままでは外の人に伝わりません。ただし、内面は必ず外に現われますので、その人の生活や振る舞いなどの行為となって現われます。ですから洗礼を受けると、自分がキリストを信じていることが人によくわかります。ただしそれをしないからクリスチャンで「ない」ということにはなりません。ですから私たちが洗礼を行なうのは、信仰の事実を式という外的な行為として現わすことで、自分自身の心だけでなく「からだで」確認し、同時に集会の人たち、あるいは自分の周囲の人たちに己の信仰を証しするためです(これを「信仰告白」と言います)。
第2点。クリスチャンであるのかないのかは、イエス・キリストを神の子と信じるかどうかによって決まります。では自分がイエス・キリストを信じているかどうかは、どのようにしてわかるのでしょうか? ここで聖霊の働きという大事な問題が出てきます。つまり聖霊体験によって、その働きを感受できた人は、主イエス・キリストを自分が信じていることを主様とのつながりによって認知できます。しかしそれでもまだ認識できないときに、異言が与えられます。ですから異言は信仰の強い人のためというよりは、むしろ信仰がはっきりしない人に与えられるものであるとさえ言えます。これによって主様の御霊が自分に宿ってくださることを「しるしづけて」いただくためのものですから。この意味では、異言は、いわば信仰の「弱い人」のための御霊の証しであり、御霊がその人に宿っていることの「しるし」なのです(この点では交信箱に出ていますのでご覧下さい)。
これを逆に言えば、はっきりした信仰の確信を持つ人には、すでにその人のうちに聖霊が働いており、したがって聖霊が宿っていると言えます。だから無教会の人たちや異言を伴う聖霊体験を持たない人でも、主様を信じる決心をして洗礼を受けるなら、その時に聖霊がすでに宿っていると信じることができるのです。ちなみに異言に批判的なクリスチャンたちはほぼそのような考え方をしています。
原初の教会においては、洗礼を受けることと聖霊を体験すること、さらにそのことの証しとして異言を語ること、この3つはほとんど同時に重なり合って進行しました。ですから洗礼を受けた人は聖霊を体験した人であり、聖霊を体験した人は当然異言を語ることがほとんど前提のようになっていたようです。場合によっては、聖霊体験の異言が先に与えられて、その後で洗礼を受けた例もあります。使徒言行録10章に出てくるローマの兵隊コルネリオたちの場合がこれに当たります(聖書には異言が与えられたから、洗礼を受けなくてもいいという考えはありません)。
なおイエス様の弟子たちと洗礼との関係ですが、イエス様を始めペトロやヤコブなど初期の弟子たちは、いずれも洗礼者ヨハネの指導を受けていたと考えられますから、当然洗礼をおそらくは洗礼者ヨハネから受けていたと思われます。ただし、洗礼者の洗礼と新約聖書の洗礼とはつながっていますが、必ずしも同じではありません。
第3点。伝統的なキリスト教では、洗礼を受けることが「教会のメンバーとして正式に加えられる」ことをも意味していました。これは現在でもかわりません。コイノニア会が洗礼を行なうのは、ひとつにはこれによって他のキリスト教会とも交わりを持ち、相互に交流する道を保つ意味でもあります。これには日本だけでなく海外の教会も含まれます。現在の洗礼には、川などで体全身を水に浸す「浸礼方式」と頭に水滴を振りかける「滴礼方式」とがあります。バプテスト教会や聖霊派の教会では浸礼が多く、カトリックや日本キリスト教団やルーテル教会など伝統的な教団では滴礼が行なわれています。コイノニア会では滴礼で行ないます。
あなたがたが今後伝道する場合に、洗礼を行なうかどうかという問題ですが、それは、今述べたこととも深い関わりがある大事な事です。無教会の人たちは洗礼も聖餐も一切行いません。ただし、行なうことに反対しているのではありませんから注意してください。このために既成の教団では無教会を教会と認めない場合があります(特に国外の教会では)。その意味でコイノニア会は、ミニではあっても立派な「教会」です。建物も専任の牧師もいませんがね。言うまでもなくわたしたちは、洗礼のあるなしにかかわらず、どのキリスト教の集会・宗団・教団とも交わりをもちます。
第4点。なぜ洗礼を受けた人だけが聖餐に加わるのかですが、これも結婚のたとえを用いて話すとわかりやすいと思います。結婚生活に入ったから結婚式を挙げるのではなくて、本来の順序としては、まず結婚式を挙げてから結婚生活に入るべきであるという考え方から出ていると言えます。聖書では、キリストと教会との関係が、夫と妻の関係にたとえられています(エフェソ人への手紙5章)。したがって、順序としてはまず洗礼を受けて(すなわちイエス様を信じていることを外に表わして)、それからイエス様と霊的な交わりに入る聖餐にあずかることになります。つまり洗礼を受けることでイエス・キリストを宿し、それから後にイエス・キリストとの交わりの生活に入ることになります。しかし、事実上イエス・キリストを信じる生活を長らくしていた人で、洗礼を受けていない人もいます(無教会で育った人たち)。そういう場合は、本人が希望すれば、聖餐を受けることができるようにしています。
第5点。カトリック教会の問題ですが、海外のカトリック教会の聖餐(ミサ)で、あなたと同じような体験をした人がいます。これにはそれなりの理由があるようです。日本人で、特に若い人たちが、おもしろ半分や観光の体験気分でカトリックのミサをもらう人が増えていることがあると思います。まじめに信じている日本人は、こういう人たちと一緒にされるのは迷惑ですが、裏にはそういう事情があるようです。さらに悪いのは、外国では、ミサのパンを食べずに持ち帰って、呪いや魔除けなど、教会が禁止している目的に悪用する人たちがいるそうです。これは教会を侮辱することであり、悪魔的であるとさえ言えます。最近のカトリック教会では、洗礼を受けている人のみに聖餐を与えるように厳しくチェックするのは、このためらしいです。
なおこれとの関連で、最近では、洗礼を「軽い気持ちで」受ける若い人たちがいるようです。私たちの集会でも、洗礼を受けた後で、全く音信不通になった人がいます。洗礼が信仰の始まりではなく終わりだと誤解しているのかもしれません。このことがあってから、私たちは、洗礼を行なう場合に注意するようになりました。
第6点。洗礼は「ユダヤ人」が対象ではないかという言った人は、おそらく洗礼と割礼とを混同しているのだと思います。割礼はユダヤ人に与えられるものであって、クリスチャンには関係がありません。洗礼は、歴史的にはともかく、ユダヤ教ではなくキリスト教独自のものです。もっとも、初期のユダヤ人キリスト教徒たちは、ギリシャ人がクリスチャンになった場合でも割礼を受けなければならないと教えたことがありました。パウロはガラテヤ人への手紙で、これに強く反対しています。
第7点。洗礼はその人にとって一生に一度だけであり、集会全体にとっても大事な出来事ですから、コイノニア会では、洗礼が行なわれた時には、これに続いて出席の全員が聖餐を戴くことにしています。