【来信】
以前、私はある聖霊の集会に参加していました。そこでは異言が語られていました。ところが、その集会の指導者が、異言によって示されたと称して、集会の女の人と伝道に出かけていってしまったのです。その男の方と女の方には、2人ともにそれぞれ家庭がありました。その後二人は、行方不明になったのです。そんなことがあって、私は、聖霊のバブテスマを求めることについて苦しみ、とうとう欝状態になり入院したのです。私は、その男の方の奥さんとは親しかったのですが、欝になったこともあり、またそういう霊がこわかったこともあり、奥さんとは8年ぐらい疎遠でした。たまたま近くの教会の献堂式に出席した折りに、久しぶりで奥さんにお会いしました。お家に招かれて暫くお話をしました。
奥さんは、その後離婚したそうです。今、元の夫は、その女の人と一緒に住んでいるそうです。しかし、女の人のほうの旦那さんは、まだ彼女を待っているそうです。奥さんには、3人の娘さんがいます。2人は、外国で、それぞれ大学教授と結婚して暮らしているそうです。また末の娘さんが情緒不安定で大変だと言うことです。彼女が言うには、元の旦那さんから、異言で離婚せよという導きがあったという手紙を受け取り、その結果、離婚したそうです。財産は旦那さんが全部持っていったので、娘さんを抱え 大変な5年間だったそうです。今、娘さんは元気です。
その奥さんは、異言はこりごりだと言っています。私達は、罪人なので異言にはどうしてもサタンが入ってくる。霊と霊の交信なので、どうしてもサタンが入りやすい。サタンは、巧妙で賢くて、天使の様な姿でやってくるから、私達は絶対にサタンに勝てない。異言は止めるべきだ。異言が、神様からきたのかサタンからきたのか、私達にはわからないのだから。イエス様が異言を語ったという御言葉はない。だから、異言は止めて、普通に祈るべきだ。普通に祈っても癒しが与えられる。だいたいこういう意見です。先生は、この意見をどう思いますか? 私は解らなくなりました。正しいアドバイスをお願いします。
【返信】
(1)まずその集会の指導者であった男性の言う「異言」とは、どういうことを指すのか? ここに根本的な疑問があります。なぜなら、異言は、それを語る本人をも含めて、「誰にも理解できない」はずだからです。ですから、聖書の言う意味では、異言に「示された」ということはアリエナイことです。彼は、何か人間の別の体験を「異言」だと取り違えているのではないですか?
(2)それでもなお、異言体験から「示された」と言うのであれば、ふたつの場合が考えられます。ひとつは異言が解かれて、日本語で語った場合です。この場合、「異言」から「預言」へと移ることになります。本人が語る異言を本人が解かれて預言となった場合に、その「預言」には特に注意が必要です。なぜなら、この場合は、自分の人間的な思いこみを「御霊の言葉」だと誤解する可能性が大きいからです。聖書に「預言は、これを吟味せよ」とあるのは、こういう場合です。私は、自分の語る異言が自分に解かれても、その多くの場合に、そこには自分の考えが入り込んでいると思っています。そういう場合には、その解釈を「ほかの人に向かって」語るのは、よほど注意しなければなりません。まして、それを「御霊からの示し」だとして、他人に言うことは慎重にすべきです。もうひとつは、異言を語る間に、視覚的に幻が見えることです。この場合は、言葉ではなく映像ですから、言葉以上に曖昧です。映像にはいろいろな意味が重層的にこめられており、その上、その人自身の思いが反映している場合がほとんどです。例えば、「死後の世界を訪れて、その有様を見てきた」という人たちが、昔からいましたが、これなどはその典型的な場合です。「視覚的な映像について」は、交信箱にありますから、読んでみてください。イエス様が異言を語った記録が聖書にないのは事実です。しかし、これは当然だとも言えます。「イエスは異言を語ったか?」として、交信箱にありますからお読みください。
(3)以上のことから、あなたが以前所属していた集会の指導者は、聖書の言う「異言」について、かなり間違った思いこみをしていた可能性があります。そもそも、彼は、どこまで聖書をきちんと読んでいたのか? それさえ疑わしいです。そういう場合に、三位一体の神の御霊を「自分の思いこみ」と混同するというのが誤りの根本です。異言を伴うイエス様の御霊の働きは、創り主の御霊として、造られた者の「罪を」、すなわちその「弱さ」を、「赦された罪」として意識し、その意識を深めることです。自分がどんなに恐ろしい存在であるかを知らずして、イエス・キリストの御霊の伝道者になることなど絶対に不可能です。
(4)異言に限らず霊的に昂揚した場合に、人は「自由」を体験します。この「自由」を自分の特権だと思い上がった場合に、その人は自分の肉的な欲望の罠に陥る危険が生じます。コリントの教会で一部の人に起こったのがこのことです。特に聖霊の働きにおいて、癒しなどの「霊能が伴う」ときには、それが「自分に具わる」霊的能力だと思いこむと、伝道者にも堕落が起こります。この場合は、日本でよく見られる「霊能詐欺的な」金儲けの教祖とあまり変わらない霊的な状態になります。アメリカでも主に用いられた人たちが姦淫や金銭的な欲のために堕落した例があります。
(5)しかし、この過ちは、決して免れることができない躓きではありません。なぜなら、躓きの石は、その石から目を離すときに躓くのであって、人は躓きがどこにあるかを知っていて、そこから目を離さなければ、決して躓くことはないからです。御霊は、赦しと恵みの御霊ですから、よほど思い上がった頑迷な人でない限り、その人を見捨てることはないと確信しています。大事なのは、十字架にある自分の罪の赦し、ここから始まりここに至ることだと信じます。イエス様の十字架・復活・聖霊の三位一体こそ、福音の極意であり、そこにすべてが含まれます。神の御霊と自分の思いこみとを区別すること、これが御霊にあって歩む者の大事な鉄則です。
(6)異言を語らなくても癒やしが起こるし信仰の歩みができるのはその通りです。新約聖書では、異言は洗礼と共に、入信の「最初に」与えられる賜でした。だから異言は、初期の段階の賜であり、比較的「弱い人」のためにあるというのはこの意味です。でも、わたし自身もそうですが、異言が与えられて初めて、主様が今も生きておられて、しかもこの自分に御霊を注いで、自分と一緒にいてくださることを実感するのも事実です。異言に導かれて、深く祈りに入り、御霊にある喜びを体験した人は多いと思います。このように、異言は絶対的なものではありませんが(この意味では知識も、癒やしも、預言も絶対的ではありません→コリント人への第一の手紙13章参照)、やはり大事にしたい賜です。
(7)あなたの友人が受けた傷は相当に深いもので、彼女が異言に対して反感や偏見を抱くのは、仕方がないと思います。とても残念で不幸なことですが。しかし、異言に限らず、信仰生活のどの問題についても、基本的には過ちや罪を犯す危険性があります。彼女の場合は、それが「異言」に限られている(?)と思われますから、信仰そのものから離れた様子ではないように思います。こういう場合は、ごまかさず、逃げず、静かに自分自身を主様の前に見つめる心が大事です。人のせいにせず、己を責めず、あるがままの自分をそのまま主様の慈愛にお委ねする、そこから主様は彼女に全く新しい自己突破を与えてくださるでしょう。主様はすべてをご存知ですから、しばらくそのままにして、慰めと優しさをもって接してあげてください。