【来信】
最近は深谷先生のHPの交わりにも参加させてもらっています。コイノニアホームページの「野の花、空の鳥」を読みました。将来に対して希望が持てなくなり、絶望しかけていました。ずっとこのままの生活は嫌だ、でもこれからどうなるんだろう。こんなの生きていても仕方がない、死にたい、と思うようになりました。薬を飲んでも医者に行ってもよくならないと、薬を飲まずに貯め込むようになりました。告白します。その貯めた薬を飲んで、自殺しようという思いがありました。自分の人生を自分で決めようと思っていました。イエス様に向かって、「主よ、主よ」と言いながら、自分の主は自分でした。自殺は罪である、という思いも来ました。神さまに信頼しないで、自分の人生の主権を自分で握り、神さまにより頼まないで自分でどうにかしようとしているからです。
一応、詩篇のぞいたり新旧約聖書は目を通したのですが、「自殺は罪である」とはっきり書いてある個所はなかったように思います。もしありましたら教えてください。
「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ。立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」(エゼキエル33の11)。というとところや、「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(第一コリント6の19)といったところでしょうか。神さまに、ゆだねきる、ということがなかなか出来ない挙句、罪、と認識しながら、神さまのみ手にあるわたしの命、人生を自分でどうにかしようと考えました。また、自分で勝手に自分の人生はもうだめだ、と絶望していました。主は最善のことをなしてくださる、と確信せず、みこころにゆだねようとしませんでした。
また、死にたい思いも自分の思い通りに行かないことへの絶望や苛立ちに所以するもので、「生きるにも死ぬにもキリストの栄光のため」というものではありませんでした。自分のしていること(薬の貯めこみ)はいけないことだ、という自覚もあって、読む信仰書や御言葉、クリスチャンサイトの記事でも、そのことを示されてきました。こうして、自分の中に罪意識を抱えていると、神さまに対して後ろめたい思いがあり、祈るのが難しくなってきます。
神さまは、決してわたしを絶望の状況に置かれたわけではないのに、自分の思うとおりになりそうにないと思って、自分の人生決めようとしました。ゆだねよう、という気持ちもありますが、まだまだゆだねきれていないのが現状です。「そんなわたしをも、神さまは愛してくださる」という言葉が、なんだか模範解答のようで実感が持てないのです。もちろん、神が愛なのは「知って」います。そして、わたしはその愛に値しないものであるのも「知って」います。けれども、今、それが実感として、自分の経験的に「知って」いるわけではないのです。イエス様を「主よ、主よ」と呼んでいますが、神が唯一だということは、悪霊どもでさえそう信じておののいている、と聖書にありました。でも聖霊によらなければ誰もイエスを主と告白できない、ともあります。わたしは本当にイエス様を主と告白できているだろうか、と疑問です。また、聖書を読んでいても、イエス様のお話やたとえ話など、わからないことが多いです。パリサイ人や群衆にはわからなかった、とありますが、わたしは本当に聖霊をいただいているのだろうか、と思います。
【返信】
あなたからのメール、どうしているのかを案じていた時でしたので、感謝でした。内容はどんな内容でも、メールそのものは感謝です!辛い状況にあるご様子、あまり長くああせよ、こうせよと言わないほうがいいと思います。辛ければ、辛いなりで、それに逆らったり、闘おうとしたり、自分はダメなんだと自己批判をシナイことこそ大事です。そのままで、じっとしていることができれば、それでいいんです。そうすれば、神様の御霊のほうから、自然にあなたに働きかけてきて心の重荷が少しづつ離れていくようになります。
自殺については、あまり長く書きません。鬱病の人が、死ぬ場合がありますが、それは「病死」であって、「自殺」ではないと思います。この場合は、「自死」という言葉が適当だと思います。逆に言えば、あなたの場合、病気から治ることが大事であって、死ぬことはイエス様の御霊の働きとは逆の方向だと思います。でも、そんな理屈よりも、辛さに耐えて、じっとしてイエス様をただ仰ぐ、あるいはただみ名を呼ぶ、これだけでもずいぶん違うのですよ。今何も気にせず、ただぼんやりしている。それでいいですよ。
それから、少し心の余裕ができた時には、次のことを考えて分かってください。あなたの場合に、「聖霊」についてまだなにか誤解があるような気がします。
(1)聖霊は聖書の言葉と結びついて、その人の罪をあばき、その罪を改めよと迫ることだという思いこみです。こうなると、聖書の御言葉は、救いと慰めになるどころか、パウロの言う「律法」と同じで、人を責めて逆に罪に陥れ、神と聖霊に対して恐怖を感じさせる働きをします。イエス様の十字架の罪の赦しとそこから降る慰めの慈愛の御霊であることを取り違えるとこういう誤りを犯すことになります。
(2)聖霊は、人が悪霊と戦って悪霊を排除するようにし向けるという誤解です。「悪霊」とはなにか? ということをここで簡単に論じることはできません。しかし、多くの人は、現実にそうでないものを「悪霊」と呼んでいるように思います。まして、聖霊は「悪霊と闘う」ためにあるというのは、よほどの場合でなければ軽々に言ってはいけません。それよりも、聖霊とはイエス様の御霊のことであり、イエス様の父からの御霊です。イエス様の父は、「あなたの創り主」ですから、あなたの心臓を動かしておられる方です。この単純で、大事な、しかも分かり切ったことが、いざとなるとなかなか心に届かないものです。
イエス様の御霊の働きも、これと同じで、あなたを活かしている命そのものであり、あなたの心臓の働きを日々与えておられるのです。疲れてぼんやりしていれば、体が休まるのはそこに自然の命が働くからです。仏教で言う「自然妙法(じねんみょうほう)」です。御霊の働きについてもこういう単純で、しかも大事なところを受け取るところから出直すぐらいの気持ちでいてください。實を言いますと、あなただけでなく、多くの人たちがこういう誤解をしているか、まだ理解していないことだということが、最近だんだん分かってきました。聖霊を神の命令と取り違えて「律法的な」ものだと誤解すること。聖霊を慰め活かす命の創り主からの霊であることを教えずに、「悪霊退散」の戦いのためだとか、「悪霊から離れる」ためだとかと教えること、これでは救いではなく逆に人を断罪する方向へと向かわせる恐れがあります。イエス様の御霊とはあなたの父の神から来るものですから、本質的には「自然」なものなのです。「あるがまま自然に」というのはそういう意味です。
【再来信】
ご心配おかけしてすみませんでした。そしてありがとうございます。今は、落ち着いています。ドクターにも、波が大きいと言われていますが、今は落ち着いています。ただ、何かをしようという気力が起きなくて、だらだらと過ごしている感じです。「そのままで、じっとしていることができれば、それでいいんです。そうすれば、神様の御霊のほうから、自然にあなたに働きかけてきて心の重荷が少しづつ離れていくようになります。」 ありがとうございます。焦って、じたばたしがちになりますが、じっと待つことって大切なんですね。「でも、そんな理屈よりも、辛さに耐えて、じっとしてイエス様をただ仰ぐ、あるいはただみ名を呼ぶ、これだけでもずいぶん違うのですよ。今何も気にせず、ただぼんやりしている。それでいいですよ。」 はい、ありがとうございます。 安心しました。本当に、気にかけていただいてありがとうございます。
以前先生からいただいたメールで、聖霊は慰め主、弁護人、わたしと一緒になって苦しんでくださるイエス様の御霊である、と教えていただいたことを思い出しました。 ある本で、「罪を抱えたままでは祈りは聞かれない」と読んだことがあるのです。教会で祈ってもらったときも、「まだ悔い改めていない罪はありませんか?」と聞かれました。聖霊は責めたりする存在ではなく、 赦してくださり慰めてくださるお方なのですね。平安と安息をもたらしてくださるのですね。
わたしの教会(カリスマ運動の影響を強く受けています)の牧師は、よく「たたかい」という言葉を使います。礼拝や祈祷会のメッセージ、また祈りの中で、サタンとの霊的たたかい、など。また、いろんなものに霊的な影響があると言います。そのようなものが、霊的に影響し、悪霊が影響を及ぼしているのだ、と。また、大好きなロックミュージックも、「サタンの影響があるから聴かないほうがいい」と言われました。霊的たたかい、たたかいと言われているうちに、聖霊が命を与えてくださるイエス様の御霊、父からの御霊であること、創り主なる神さまの、わたしの心臓を動かしてくださっている御霊だということに、思いが及びませんでした。わたしのことをすべてご存知で、すべて赦して生かしてくださっているのですね。御霊は大きな方なのですね。