【来信】
昨日ある姉妹と二人で異言で祈っていましたら、ものすごく重い注ぎでした。私たちが祈るといつもそうです。祈り終えて彼女が、青い光が上から来て自分の肩を抱え包み、ぼとっという体感を伴って流れ下っていくのをはっきり体験した、と言いました。はじめての体験で驚いている、ということでした。
実は私は祈りの時間の後半、「私たちに聖霊の注ぎを」という祈りを続けていたのです。私はぼとっという体感はいつもありますし、聖霊の油が流れ下るのをそのときも感じましたが、彼女も同じことをビジョナルに体験していたのでした。私は按手の夜、青い光の体験をしていますし、更に昨年の四月、青い炎に包まれるビジョンを見ています。彼女は私と祈っていて、キリストを見ることがあるそうです。彼女自身が手を取られたり、私が祈っている傍らで、白いキリストが祈っているのを見たことが何度もあるといっていました。「ただし、言わなかったんです」ということでした。私の研究室でキリストを見た人は彼女だけではありません。また気配を感じたり、かがんでいる時に手を取って起こされたり、背中をたたかれたり、身体がかっと熱くなったり、泣き出した未信者が何人もいます。不思議な話ばかりですが、私も最近は「必ず(二回に一回くらいの割合?)何か起きる」という確信犯になりつつあります。
【返信】
主様があなたを通して御霊の働きを進めておられる様子を知って、本当に感謝です。「聖霊の油注ぎ」は、旧約聖書にもよく出てきますが、霊的な表象というものは驚くほど正確に伝わるものだと、今さらながら驚いています。この表象に限らず、私は、聖書が証しする様々な表象や伝承は、現代の「合理的な」聖書解釈がいくら否定的にとらえても、そういうもっともらしい「学説や仮説」よりも、はるかに正確で「学問的にも」信頼できると思います。この辺のところは、ユングの心理学の世界に通じるところがあるのかもしれません。
特に『知恵の御霊』でも書いておきましたが、聖霊の働きは、「ロゴス的」であると同時に「ソフィア的」でもあることです。ロゴスとソフィアとを「男性的」と「女性的」のように言い換えることもできますが、これでは誤解を生じます。両方とも、男女に共通して体験されることですから。ただしソフィア的であることには、「感覚的」であり「身体的」であることが含まれます。まさにこれこそがソフィア(知恵)の特長ですが、同時にソフィアの「限界」ともなります。この辺のところは、『知恵の御霊』の中の「知恵の書」や「フィロン」の章で述べておきました。
私の言う意味は、ソフィア的感覚(身体感覚・ヴィジョンなど)には、これに対する「方向付け」がきわめて大事だと言うことです。ルネサンス的に言いますと、それらの体験はどこまでもさらに奧にある霊的な真理にいたるための階梯、つまり「はしご」だということです。はっきり言って、これにはエロース的な感覚もつきまといます。エロースは人間存在の根元的な働きですから、これを否定することはできません。しかし、これを無条件で肯定することもできないのは、すでによくお分かりと思います。エロースはアガペーによって「方向付けられ」なければならない。この点を見誤るところに、なさまざまなおかしな結果や時にはゆがんだ事態に陥る危険があります。こういういわゆる「霊的な体験」がゆがんだ結果を引き起こす事例は、すでに交信箱でも紹介してあるとおりです。
霊的な体験は、(1)これに祈りによる御言葉の探求が伴うことがどうしても必要なのです。それはパウロの言う「十字架の言葉」であり「赦し」と「慰め」と「力づけ」の御霊へと行き着くところです。(2)私は、「無の境地に達せよ」などと禅的なことは言いませんが、言葉の本来の意味で、「自然になれ」と言いたいと思います。そうすれば、(3)霊的な事態にあっても冷静になることができます。異言を語る時も霊知は澄んでいるのと同じように、御霊に燃えている時でも、奧では冷静です。特に自分だけでなく、牧師さんをも含めて他の人たちを指導する時には、この心がけが大事です。あなたに与えられた賜が大きければ大きいほど注意深くなって、時には自分の霊的な体験を心のどこかで冷静に「吟味する」知恵が要求されて来ます。あなたに授与された賜が、ほんとうの意味で人を育て己を活かすためにも、これらの点に留意して歩んでください。そうすれがきっとすばらしい御霊の働きが見られますよ。
【再来信】
お返事有難うございました。励ましになりました。実は私と彼女がこの体験の後語り合ったことがあります。それは聖霊の賜物を経験しても「賜物主義」にならないということです。多くの聖霊派の方たちがどこか賜物を追いかけすぎて走っているように思われる。しかしそうはしない。あくまでも「十字架のキリストの愛にとどまる」こと。そこへ立ち続けて、起きてくることを感謝しながらも冷静に受け止めていくことです。私はこの点で慎重過ぎる位、慎重だと思います。
彼女は福音派なので、毎朝、一節の聖書のみ言葉からデボーションをする習慣が身についています。それはそれで大切なことなのですが、ともすれば、時としてその「文字」に囚われすぎてしまう傾向もあります。ビジョンを与えられた人がそれに囚われるように「文字」に囚われてしまうのです。必要なことはビジョンやみ言葉、人を通して必ず繰り返して示される。だから分かるまでどっしりしていていいのだ、ということを言っています。と同時に、例えば一節の言葉を読んだらその言葉の文脈を捉え、出来ればその文書自体がどのようなことをどのような背景の中で伝えるために書かれているのかを捉え、複眼的に聖書を読むようにすることも伝えようとしています。
私自身は自分の周囲に起きてくる「聖霊体験」は出エジプト記の3.12「私はあなたと必ず共にいる。このことこそ、私があなたを遣わすしるしである。」に尽きると思っています。四月に「燃える柴」のビジョンとともに示されたみ言葉です。ですからそれ以上の詮索しようと思いません。それで十分であると思っています。