【来信】
   
最近のイラク戦争についていろいろ考えてみました。アメリカと言う国の行為をどう捉えたら良いのでしょうか。また現在でも新興宗教などで、教祖様のお祈りの最中や集団でのご祈祷の最中などに信者が急にわけのわからないことを話しだしたり体が自分の意志とは無関係にかってに動き出したりすることがあります。私には自分の中に起きた思いが「御霊」からか「悪霊」からか判断することは不可能です。実際,旧約聖書のように神が殺人を命じるとき、わたしはどうしたらよいのでしょうか。先生殺人は明らかに悪であり善なる神がそんなことを命じるわけがない、これは何かの間違いに違いない、そう考えて、この命令を無視するのでしょうか。それとも、神の意思こそが何が善で何が悪かを決定する絶対基準であるから、不完全な人間の眼には不合理な命令と見えるかもしれないけれど、自分の勝手な意見ではなく、神に従うことこそ正しいのだ、そう考えてこの命令を実行するのでしょうか。
 神が命令するとき殺人が「正義」となることは、昔も今も、キリスト教においても、疑う余地のない明白な事実といわねばなりません。例えば、ラビン首相を殺害した敬虔なユダヤ教徒の青年イガル・アミルは、判事の前で、「神の律法によれば、ユダヤ人の土地を敵に渡してしまう者は殺すべきことになっている」と証言しています。一般に彼らは「過激主義」とか「偽宗教」あるいは「邪教」の名を与えられていますが、問題の重大さは、実はこのように殺人が神の命令となる教えが、「ある奇妙な新興宗教」だけのものではないところにあります。聖書の神自身が殺人や戦争や略奪を命令するのですから、キリスト教史において、いかに殺人や戦争や侵略が宗教的に容易に正当化されてきたかを知っても、驚くには値しません。キリスト教史における頻繁な宗教殺人や宗教戦争は、聖書の教えに背くどころか、むしろ聖書の教えに忠実であったがゆえになされたと考えられるからです。宗教殺人の本質は、たとえそれが、「敵をも愛せ」という愛の宗教であっても、その殺人が神の命令によってなされるときは「正しい殺人」であると見なされる、という事実にあります。

【返信】
(Ⅰ)
  お便り読ませていただきました。難しい問題が含まれています。ご質問には、キリスト教以外の日本の諸宗教や旧約聖書のユダヤ教がキリスト教と並んで出ています。しかし、ここでは「宗教」と「キリスト教」とを区別してお答えします。俗に言う「鰯の頭も信仰次第」と言って、どの宗教も所詮は同じだと考える人がいますが、私は、特に宗教の場合には、礼拝する「対象」が異なれば、礼拝の「本質」も異なると考えます。いろいろな宗教を一緒にして、よく「宗教とは・・・」という論じ方がされますが、これは「宗教」の本質が霊的なものであることを十分認識しないがために生じる誤りだと思います。宗教には共通するところがあります。しかし、人の顔が似ているから性質も似ていると判断するのは誤りで、似ていても正反対の性質の人がいくらでもいます。「神の名のもとに殺人を行なう」のは旧約聖書では当然のことでした。「聖戦」思想は旧約を一貫して流れています。イスラム教は現在でもそうですが。しかし、新約の福音では、これに対して厳しい歯止めがかけられています。ただし、ご指摘の通り、イエスの教えも事実上は守られてこなかったのが、キリスト教の歴史的現実です〔キリスト教の犯した罪と誤りについては『これからの日本とキリスト教』の7章「寛容な神を求めて」の前半をお読みください〕。わたしは決して「絶対」平和主義ではありません。しかし、これに近いと言えましょうか。しかし、戦争を含めて、抵抗し闘うことが許される場合があると思っています。でもそれは、ナチスのような独裁政権の場合に限ると思います〔この点については、共観福音書講話:「非暴力について」をお読みください〕。
(Ⅱ)
   しかし、イラク戦争については、わたしは最初から反対でした。ただしこれには、少しコメントが必要です。
(1)わたしはフセイン政権が倒されたこと自体は正しかったと思っています。また北朝鮮の金正日にもフセインに対するのと同じような憤りを覚えます。このように<独裁的な政治権力に対する厳しい批判とこれと闘う精神>は、新旧約聖書を通じて、ユダヤ=キリスト教の特長です。ファラオと闘ったモーセや古代ヘブライの預言者たちがそうでした。イエスもこの意味では、ヘブライの預言者の伝統を受け継いでいます。これは仏教を初め、アジアの宗教にはないキリスト教の特質です。
(2)したがって、アメリが「自由と民主主義」を標榜して、アラブ世界に介入することそれ自体は、私は必ずしも「悪」だとは考えません。
(3)問題は、アメリカの言う「自由と民主主義」が偽りの欺瞞にほかならないところにあります。なぜなら「自由と民主主義」を字義どおりに解釈すれば、それはイラク人の自由であり、イラク人自身の意志に沿うことが真の民主主義だからです。だから、アメリカ軍と闘っているイラクの民衆のほうが、真の意味での「自由と民主主義」のために闘っているとさえ言えます。このような「アメリカの皮肉な逆説」は、今に始まったことではありません。かつてのヴェトナム戦争では、アメリカと闘った指導者ホーチミンが、「すべての人間は平等である」というアメリカ独立宣言の言葉を旗印にして、ヴェトナムを共産主義から「解放する」と称したアメリカ軍と闘って、ついに勝利を収めたのもこの例です。
(4)アメリカは戦後日本を「自由と民主主義」の国にするために平和憲法を策定しました。ところが、今になって、日本の平和憲法を改変させて、日本の軍隊をアメリカ軍の援軍として利用しようとしているのもアメリカです。アメリカはかつてロシアと闘うアフガンのタリバン政権を援助しました。そのアメリカがタリバンを排除したのです〔アフガンへのアメリカの介入については聖書講話欄の「2002年:念頭に想う」をお読みください〕。アメリカはかつてイランと闘うイラクのフセインを援助しました。そのフセインを倒してイラクを今占領しています。これには石油の利権が絡んでいるのは間違いありません。これがアメリカの「自由と民主主義」の矛盾です。
(Ⅲ)
(5)しかし、こういうアメリカの矛盾は、実はもっと根の深い問題とつながっています。それは「自由と平等と民主主義」という思想それ自体に潜む矛盾です。武力や権力による暴力的な支配ではなく、人々の心を尊重する思想こそ「民主主義」の根本理念です。ところがこれの矛盾は、この理念それ自体に欺瞞が内蔵されていることです。なぜなら、直接に武力や権力による暴力の支配に依存しなくても、情報操作や様々なメディアを用いて、「人の心を操る」ことができさえすれば、権力による支配が可能だからです。この場合に、「民主主義」という名の下で、人々に「気づかれないうちに」ファシズムが生じてきます。これの極端な例が、オウムのようなマインド・コントロールによるファシズムです。今もなお麻原を信じている信者が何百人もいるという不思議がこれです。これこそ自分たちが望むことだ、自分たちの意志だ。こう人々に「思いこませさえすれば」それで「民主主義的なファシズム」が成立するのです。「自由と民主主義」という名のグローバルスタンダードに潜む欺瞞がこれです。これが21世紀型のソフトなファシズムの正体です。こういう欺瞞を内蔵するアメリカの「民主主義」の軍隊が、刑務所でその残虐な暴力の正体を現わすのは当然です。
(6)この問題を拡大するなら、わたしたちの日常生活においても、メディアなどの操作によって、わたしたちの「気持ちそれ自体」がコントロールされていることがあります。テレビのコマーシャルから政治的なプロパガンダから経済的な発言にいたるまで、わたしたちは、巧妙な欺瞞によって心理的に操作されている。こういう時代が今到来しつつあります。「メディア・リテラシー」という聞き慣れない言葉が出てくる背景にはこのことがあります。かつては、読み書きができることが、物事を批判したり判断したりする教育の根本でした(今でもそうですが)。しかしこれからは、イメージや映像や様々な言説の裏にある隠された意図やたくらみを見抜いて、その操作性を批判する教育が求められる時代が到来しています。「グローバルスタンダード」の根幹をなす民主主義に潜むこういう欺瞞性、これが21世紀の価値観を決める最大の課題となるでしょう。
(7)これに対処するキーワードの中で、特に重要なのは「個人」でしょう〔→「個人」については『これからの日本とキリスト教』3章「私人と個人」をお読みください〕。なぜなら、これからの時代では、宗教的な「寛容」の精神、すなわち異なる宗教や考え方の人たちと共生できる思想や信仰が大事になるからです。このような寛容な信仰は、組織や教派や宗団から、すなわち「自分を組織に合体させる」宗教からは決して生まれません。国と国、宗派と宗派、宗教組織と宗教組織、これらがいくら提携しても協定を結んでも、ほんとうの寛容な宗教性は育たないからです。寛容性は、個人個人が、自分の置かれた状況の中で、違った宗教、違った民族、違った階層の人と「個人的に」接し合うところからしか育たないからです。時間がかかってもこれより他に方法はありません。ですから、これからの民主主義とキリスト教は、「個人」と「寛容」が、どこまで尊重されるかでその未来が決まると思います。日本のキリスト教の目指すところもここにあります。
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