【来信】
 ところで、先生からのメールにバプテスマは「水と火と聖霊の全部で三位一体」とあり、3種類あると表現されているのを見て、この初めてのメッセージにびっくりしております。というのも聖霊と火は同一のものと解釈しておりました。バプテスマは水と聖霊の2種類と思っておりました。マタイ第3章11の「聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」とあるのは聖霊と火が同時に来るものと思っておりました。火は古いものを焼き尽くすだけで、そのあと聖霊様が来なかったからはっきりした異言が出なかったと言うことでしょうか。それならそれで取りあえずは、自分の体験に納得できますが、逆に今までの私は水のバプテスマを受けていないだけでなく、聖霊のバプテスマも実は受けていなかったと言うことになりますね。それでは私の書いたヨハネ第3章5の「水と霊から生まれなければ・・・」の水も霊も受けていなかったことになり、やはりショックです。ちょっと、うかうかしていられない心境です。何かこれらを解読する本か資料があればお教えください。もし、先生にお時間があれが、もう少し詳しくご教示ください。宜しくお願いします。

【返信】
<水と火と聖霊との三位一体>という言い方は、誤解を招く言い方であったと思います。私の言いたかったことは、<同じ御霊が火ともなり水ともなる>という意味です。ですからこれは<並べて三つ>と言うことではなく、御霊が水と火との両方の姿で現わされるという意味です。誤解を与えて申し訳ありませんでした。なおこの問題は、私が書いた『知恵の御霊』の126頁〜127頁に書いてありますので、下記のことと併せてお読みください。

(1)水のバプテスマは、新約聖書では、洗礼者ヨハネから始まります。これは「悔い改め」のバプテスマと呼ばれています。洗礼者ヨハネは終末の神の怒りが迫っていると信じていたので、「罪を悔い改める」バプテスマを授けたのです。
(2)この洗礼者ヨハネが、「来るべきメシア」が現われる時には、彼は「聖霊でバプテスマする」と言ったとマルコにあります。ここから、キリスト教会では、メシアであるイエス・キリストによる洗礼は、洗礼者ヨハネの「水」の洗礼を受け継ぐことと「聖霊の洗礼」とをひとつにして理解するようになりました。(ほんとうは、洗礼者ヨハネとキリスト教会との間には少し違いがありますが、この問題は省略します)
(3)ところがマタイとルカでは、洗礼者ヨハネは、メシアが来たら「聖霊と火で」バプテスマすると言ったとあります。ですから、マタイとマルコとルカとを合わせますと、洗礼者ヨハネは、メシアが来たら、自分が行なっている「水」の洗礼と同時に「火と聖霊」によるバプテスマを授けると言っていたことになります。ただし、洗礼者ヨハネは、実際は「聖霊」という言い方をしたのではなく、「火と霊」(火「の」霊ではありません)でバプテスマすると言ったのではないかと思われます。なぜなら、「聖霊」はイエス・キリストの御霊のことですから、洗礼者ヨハネは、まだこの段階では、イエス・キリストに出会っていません。ですから、「水と火と聖霊のバプテスマ」ということは、キリスト教会が誕生して初めて言われたことだと思われます。
(4)「火」は、洗礼者ヨハネでは「裁きの火」を意味しました。しかし、キリスト教会では「火」はイエス様の「ご臨在」を現わします。また「水」は洗礼者ヨハネでは「悔い改め」の意味でした。しかし、キリスト教会では「水のバプテスマ」は「罪の赦し」のバプテスマとなったのです。
(5)ここで、「水と火と聖霊」のバプテスマというのは、どういう意味かという問題が生じます。これを第一に、「水」と「火の聖霊」という意味に理解することができます。第二に「水」の洗礼は洗礼者ヨハネから始まり、「火」の洗礼はイエス様が地上にいる時に始まり、「聖霊」の洗礼はイエス様の復活の後でペンテコステで始まる、という理解があります。第三に「火」が「裁き」を意味するのであれば、これは、イエス様が再臨する終末の時に降るもので、したがって、洗礼者ヨハネの預言にある「火のバプテスマ」は、まだ現在は来ていないという解釈もあります。
(6)私の推定では、おそらく手島さんは、第一の解釈をとりながら、この「火のバプテスマ」を「イエスの臨在」を現わす意味に理解して、これを「聖霊のバプテスマ 」とひとつにしたのではないか? そして、これが洗礼者ヨハネの「水のバプテスマ」に取って代わると考えたのではないか? こう思います。だから「水」はもう要らないことになります。
(7)ここで少しおかしな事が起こりました。それは、キリスト教の教会において、「悔い改めと罪の赦し」の水のバプテスマ」は、イエス様を信じると告白して洗礼を受けさえすれば、「罪の赦し」が与えられると考えられるようになったからです。こうなりますと、「水のバプテスマ 」と「聖霊のバプテスマ 」とは本来はひとつですから、「水の洗礼」によって同時に「聖霊の洗礼」も成就されていると教えられるようになったのです。教会で「火のバプテスマ 」ということがあまり言われないのは、この理由からでしょう。
(8)「火のバプテスマ」と「聖霊のバプテスマ」とは、同じなのか区別されるのかはともかく、このような状態では、ペンテコステの「聖霊のバプテスマ」は、あまり省みられなくなったのです。そこで、「水のバプテスマ」とは区別して「聖霊のバプテスマ」ということが、リヴァイヴァル運動の中で、言われるようになりました。本来は「水のバプテスマ」と「聖霊のバプテスマ」とは、ひとつであったのがこうして切り離されてしまったのです。またペンテコステの時に聖霊が「炎」のように現われたとルカの2章にありますから、「聖霊のバプテスマ」こそが「火のバプテスマ」と同じであると見なされるようになったと思います。
(9)こうして、「悔い改めと罪の赦し」を意味する「水のバプテスマ」と「聖霊のバプテスマ」とのふたつがあり、「聖霊のバプテスマ」は「炎」である「異言」のしるしを伴うという見方が行なわれるようになったのです。
(10)ここで「異言」ですが、これは聖霊の「ひとつの賜」です。ですから聖霊が働くなら、異言が出ます。しかし、異言が「でなかったら」聖霊は存在しないと言うのは誤りです。

結論としては、人はイエス様を心から信じるなら、イエス様の御霊の宿りをすでに戴いています。水の洗礼はこのことを確認する意味があります。また、逆に言えば、イエス様を信じて水の洗礼を受けるなら、その時に聖霊の宿りが与えられるのです。同じように、「火の洗礼」も、これを受けた人はすでに聖霊の宿りが与えられていると思います。あなたの場合、「水と火」という新約聖書ほんらいの洗礼を受けていますので、当然、聖霊のバプテスマを体験しています。イエス様の御霊が、あなたにあって働いているのは、お嬢さんへの按手の祈りが証明しています。後は、安らかな気持ちで、祈りを続けるなら、異言は自然と出てくるようになります。あなたの祈りにはすでに異言がいつ出てもおかしくない力があると思います。あなたの疑問の背景には、こういう歴史的な過程の複雑な関係があるのです。

【再来信】
早速にご返事ありがとうございました。先生のご回答くださった中で、(7)、(8)に書かれてある『「水のバプテスマ」と「聖霊のバプテスマ」とが本来ひとつである』の意味が私としては理解できないでおります。水の洗礼は自分が受けようと決心すれば受けられる言わば儀式のようなものであるのに対し、聖霊の洗礼はあくまでも神様から与えられるもので、決して人間の決心で得られるものではないように思われますが、どう解釈したらいいのでしょうか。
 しかし、聖霊のバプテスマは求め続けたら何度でも与えられると聞きますので、もう一度、私自身で解明するためにも求め続けたいと思っています。今度こそ、そのチャンスが訪れたら、前回のように力まず、神様に全てをお委ね出来たらいいのにと思いますが、前回の時を思い出しますと、赤ちゃんの産声のような異言が口から出ているのに、頭の中では、祈りと違って「これが異言だろうか」とか「この時こそ神様に全託せねば」などと変に冷静に考えていました。「火」が体に入った時もそうでした。「これはなんだろう」なんて祈りそっちのけで考えていたように思います。異言が与えられなかったのは、雑念から集中して祈らなかったためでしょうか。正直、この時は、神様にすべてお委ねしますと口ではお祈りしながら、何か恐怖心と自分への不信が沸いて、その言葉を飲み込んでいたように思い出します。人から恐怖心はサタンから来るからそれに打ち勝たねばならないと聞いたことがありますが、普段の祈りの時と違って、御前に出ることへの恐怖心は誰にでもあるもので、誰もがそれに打ち勝って祈っているわけですか。それとも私が臆病なだけでしょうか。

【再返信】
追伸を読ませて戴きました。
<「水のバプテスマ」と「聖霊のバプテスマ」とが本来ひとつである。>というのは、原初の教会では、水の洗礼と聖霊の降りとは同時に体験されていたということです。例えば、ガラテヤ人への手紙3章1節から5節までをお読みください。ここでパウロはガラテヤの信徒たちに彼らが聖霊の体験をした時のことを語っています。「霊によって始めたのに肉で仕上げる」とありますが、この「霊によって始める」はガラテヤの信徒たちが、聖霊の降臨を体験したことです。だからパウロは、「あれほどの体験」と言っているのです。ところがここで、パウロの言う「あれほどの体験」というのは、実は水の洗礼を受けることでもあったのです。だから、原初の教会の人たちにとっては、「水の洗礼は自分が受けようと決心すれば受けられる言わば儀式のようなもの」ではありませんでした。それはわたしたちが今聖霊体験を求めるのと同じくらい真剣ですごい決心の体験だったことが分かります。
  だんだん、時が経つにつれて、おっしゃるとおり「水の洗礼は自分が受けようと決心すれば受けられる言わば儀式のようなもの」になってしまいました。「気がついたらクリスチャンだった」などというのは、パウロの時代の人たちに全くありえないことであったのですね。
 <前回の時を思い出しますと、赤ちゃんの産声のような異言が口から出ているのに、頭の中では、祈りと違って「これが異言だろうか」とか「この時こそ神様に全託せねば」などと変に冷静に考えていました。「火」が体に入った時もそうでした。「これはなんだろう」なんて祈りそっちのけで考えていたように思います。異言が与えられなかったのは、雑念から集中して祈らなかったためでしょうか。正直、この時は、神様にすべてお委ねしますと口ではお祈りしながら、が沸いて、その言葉を飲み込んでいたように思い出します。>
 この時の気持ちは私にもよく分かります。「祈る自分と、与えられる自分、それらをつなぐそのまた自分。」あの夏期講話でわたしが語ったのは、まさにこのことでした。初めて異言が出る時には、だれでも「何か恐怖心と自分への不信」が来るものです。でも、あえてそれでもイエス様にお委ねするとそこから異言がほとばしることになるのですね。繰り返しますが、あなたは、すでに聖霊の降りを受けています。だから、素直に自然に祈っていさえすればきっと異言が口から出てくる時が来ると思います。これは「時間の問題」だと思います。
 ただし、もしもあなたが、「主様、ちょっと待ってください」と言えば、御霊はそれ以上あなたに異言を語らせようとはなさいません。御霊は自由の御霊ですから、あなたの口をこじ開けて、異言を語らせることはしないからです。
戻る