【来信】
「異言と悪霊と関係があるのですか」のところに書かれている「聖霊が働くときには、その人の内に潜む隠れた罪(憎しみや怒りなど)や悩みや弱さが表面に現れることがあります」とあります。ある姉妹が、「異言で2時間続けて祈ってごらん。胸の中からいろんな悪いものが出てくる。初めは天使の姿で現れているけどいつの間にか悪霊に摩り替わっている」と言います。ところが私は、異言で祈ることによって神様から私のうちに潜む罪を示されたりもしますが、言いようも無い平安で満たしてくださり、主様が生きておられるのを実感します。悪霊を感じることなど無いのです。その姉妹の「悪いもの」というのは、隠れた罪、悩み、弱さ等なのでしょうか? 姉妹はそれが悪霊だと言っているのでしょうか? わたしには良くわかりません。この場合も、交信箱にあるように、そのままの状態を主様の御霊に委ねて祈るうちに、悩みが取れたり、出て行くのでしょうか?
【返信】
実を言うと私は、昔はともかく今は、異言で2時間も祈ったことがないのです。たいていの場合預言に変わったり、あるいはもっと通常には、静かな深い御霊の満たしへと移っていきます。主様のご臨在を戴きますとね、何にも言わずにただ黙ってひれ伏してしまいます。ただし、そこまで行く間に、自分のうちに潜むさまざまな雑念や思い煩いや悩みなどが「取り除かれて」行きます。悩みが深い時には、それが出て行くのを体で感じることも珍しくありません。昔から「疑心暗鬼を生む」と言いますが、人のことで悩んでいると思っていても、実は自分の悩みだったりすることもあります。家族のこと、コイノニア会の皆さんのこと、まだお会いしたことはないが、メールで助言を求めている人、こういう人たちのことを祈っていますと、悩みはいくらでもあります。しかし、これらはすべて、悪霊の仕業だとは思っていません。もっとも、「悪霊」どもには、悪魔という大親分がいて、その子分、そのまた子分というふうにヤクザの組織みたいな「悪霊軍団」がいるのであれば、多分、その下っ端の悪霊なのかもしれませんが。
しかし、この頃は、どこまでが人のことで、どこからが自分のことか? などという区別もあまりつけません。除夜の鐘の数ではありませんが、人には常に百八つの煩悩があると言います。だから、自分の悩みなのか、人の悩みなのか分かりません。ただ、異言を伴う御霊に導かれますとね、そういういろいろな雑念(ぞうねん)、煩悩、罪業(ざいごう)が、意識には現われますが、それでも不思議に深いところで平安に導かれます。大事なのは、そういう様々な思いに「とらわれない」こと、「恐れないこと」です。パウロの言葉で言えば、「支配されない」ことです(ローマ人への手紙6章12〜23節)。人生の船は常に進んでいます。進めば波も立つでしょう。時には高波も来るでしょう。でも、世の中にうごめく悪霊軍団よりも、さらにさらに大きな、全宇宙の創り主である主様の力ある御霊にお委ねしていくなら、そういうことに「とらわれなく」なります。これ仏教で言う「我執」(がしゅう)からの「解脱」(げだつ)でしょうかね。要するに「自分」というものが無くなるのです。愛光無心 春風接人 霊知顕現 霊泉湧出 の境地です。「一麦の愛に開くや 春の風」という世界です。でもこれ、自分にもまだまだですがね。その姉妹も大きな大きな神の御力と御子の十字架の愛と御霊の赦しを戴いたら、そういう心の疑心暗鬼や己のうちに潜む怨念や罪業にもとらわれなくなり、御霊に身を委ねる時に自然に取り除かれていくのではないでしょうか。