【来信】
 わたしの知人で、ある福音主義系の教会の姉妹がいます。彼女の夫は長男ですが、彼はキリスト教の信者ではありません。夫の両親が亡くなりましたので、それまで両親のもとにあった仏壇を長男の夫が引き取ることになりました。ところが、その姉妹の夫は、単身で、教会の牧師さんの所へ行って、仏壇を家に置いてもいいかどうかを尋ねたのです。するとその牧師さんは、「わたしの教会にはそのような例はない」と告げたのです。これは仏壇を家に置いてはいけないという意味でしょう。夫は、自分がキリスト教の信者ではないから、自分が自分なりのやり方で仏壇の世話をすれば、妻は今のままで信仰生活を続けることができると判断したのかもしれません。実は夫には妹がいて、その妹は熱心な仏教信者です。彼女は、実家の仏壇のことを聞いて、兄の仏壇の世話の仕方では、物足りないと思ったのでしょうか、仏壇を引き取ったなら、毎日仏壇に丁寧にお参りをしなければならないと言ってきたそうです。牧師さんのこと、夫の妹のこと、これらのことがあって、とうとうその夫婦は別居をしてしまいました。仕事は夫婦が一緒にする仕事ですから、昼間は同じ仕事場にいて、後は別居をしている状態です。このような場合には、どのようにすればよいのでしょうか? 
【返信】
 おたずねの件で、二つ申し上げたいことがあります。
(1)まずわたしにはどうしても分からないことがあります。問題はクリスチャンの妻と仏壇を預かった夫との間の問題だと思います。仏壇のために夫婦が別居するというのはその家庭にとっては深刻な問題です。問題の一番中心にいるのは、牧師さんではありません(牧師さんの両親の仏壇のことではありませんから)。仏壇を預かった夫でもありません。なぜならその夫はクリスチャンではなく、しかも仏壇の世話を妻に押しつけるのではなく、自分がその世話をすると言っているからです。問題の一番中心にいるのは、そのクリスチャンの妻です。彼女が、全体の問題の鍵となる人、キー・パーソンです。ところが、あなたからの話を聞く限りでは、肝心のそのクリスチャンの妻の顔が全く見えてこないのです。お話では、仏壇を家に置いてもいいかどうかと牧師さんに尋ねに行ったのは、そのクリスチャンの妻ではなく、信者ではない夫のほうですね。その間、その妻は、なにをしていたのでしょうか?  彼女は、その決断は牧師さんに任せてあるから、牧師さんの言うとおりにします。だから、あなたが直接牧師さんのところへ行って聞いてきてください。こう夫に言ったのでしょうか? 別居の理由が、キリスト教の信仰の問題ではなく、実際はほかにあるのなら話しは全く別です。理由が他にあるにせよ、そうでないにせよ、ここでは、純粋に信仰的な理由で別居をしたという前提でお答えすることにします。あなたの話では、別居の理由は妻のキリスト教の信仰にあります。わたしが「妻の」と言ったことに注意してください。別居するかどうか? そんな大事な問題を決めるのは、いったい「誰の信仰」なのでしょうか? これは「牧師さんの」信仰の問題ではありません。「夫の」信仰の問題でもありません(その夫は妻のキリスト教それ自体に反対している様子が見受けられないからです)。また妹の信仰の問題でもありません(妹さんのことについては後で述べます)。それは妻の信仰の問題です。少なくともわたしにはそう思われます。なぜなら、もしもその妻が、夫に向かって「あなたが自分で仏壇を世話してくれるのなら、わたしのほうは、何も問題がありませんよ。」こう言いさえすれば、問題は全く起こらないのではないでしょうか? ふたりは別居せずに済むのではないでしょうか? もしもそれではいけないと牧師さんが言うのなら、今度は「その牧師さんの」信仰が問題になります。それでは不十分だと妹が言うのなら、今度は「その妹の」信仰が問題になります。そのいずれの場合でも、神は、その家庭の別居の責任を妻に向かってではなく、その牧師さんに、あるいはその妹に向かって問うでしょう。他人の家庭を破壊してまでも自分の信仰を通そうとするのは、憲法の信仰の自由を犯すだけでなく、たとえ何教であろうとも、信仰者として間違った姿勢だからです。しかしそれもこれも、まずクリスチャンの妻が、いったいどういう信仰で、どういう決心したのか? これが、「最初に」最も大事なこととして主イエス様のみ前に問われます。
(2)そこでその妻の方にわたしから助言をしたいと思います。わたしたちのコイノニア会では、こういう場合に、その本人の自由な信仰に任せます。会の代表者として、わたしもその本人に意見なり助言なりをすることがあります。またほかのメンバーからもそれぞれにその人なりの意見や助言を受けることもできます。ただし、それらの助言が全部一致するとは限りません。信仰の問題というものは、通常それほど簡単でも単純でもないからです。むしろ意見が互いに違っているほうがいいとさえ言えます。本人は、それらを聞いた上で、自分で選び、自分で祈り、自分で決心をし、自分で行動します。本人は、コイノニア会のメンバーですが、会の奴隷ではありません。それぞれのメンバーの主は、主イエス・キリストただおひとりだからです。あなたの主はイエス様です。ほかの誰に所属するのでもありません。
 だからあなたが自分でイエス様に祈り、イエス様から答えをいただくまで「主を待ち望む」のです。もしも答えが出ないなら、あるいは自分で決心がつかないのなら、あなたは今の状態を変えないほうがいいです。ご主人と共に住み、仏壇はご主人に任せて、そのままの生活を続けてください。信仰生活で大切なのは、自分が主様に祈って納得した上でなければ、動いてはいけないことです。大事なのは「あなた自身が主様から与えられる信仰」であって、ほかの誰にも動かされないことです。これが「信仰」というものです。「すべて信仰によらない行為は罪」です。だから決心がつかない間は、「する」ほうより「しない」ほうを選んでください。「あなたが人にしてほしいと思うとおりに<する>」ことができない場合は、「あなたが人にしてほしくないことは<しない>」ほうが正しいのです。別居をするほうではなく、しないほうを選んでください。このために「あなたが」主様から責任を問われることはありません。あなたは、自由に決めることができるのです。
   それから夫の妹さんには、こう言ってください。聖書に「主イエス様を信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われる」とあります。その「家族」の中には、家族の先祖も含まれます。だから、わたしがイエス様を信じて行なったことで、先祖や家族に迷惑がかかることはありません。まして、夫婦で決めたそのことのために、先祖の祟りが来るなどと言うことは絶対にありませんから安心してください。こう言ってあげてください。わたしたちの主イエス様は、呪いや祟りの神ではなく、罪を赦す祝福の神だからです。しかもこの主イエス様の父の神は、絶対最高の霊的な権威を持つ方ですから、いかなる浄土も霊界も、天使も悪霊も、祟りも呪いにも、この神の支配のもとにあるのです。亡くなったご先祖も今は霊界にいるはずです。それならなおのこと、このイエス様の父の神を信じる信仰によって、子孫が救われ祝福されていることをあの世で必ず喜んでおられます。だから心配はいりません。わたしの考えでは、別居するよりも仏壇の世話は夫に任せて、妻の方は安心して主にお委ねして共にいるほうが、主様の御心にかなったことだと思います。はっきり言えば、仏壇はあってもなくても問題ではないのです。大事なのはご夫婦の幸いであり祝福です。あなたの内に宿っておられるイエス様の御霊は、きっとそのほうを喜びます。愛と喜びと平安、この三つが大事ですから。
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