【来信】
ある教団の伝道師と話していたとき、「無教会の伝道のやり方(日常自分が立たされている所でいかに証し伝道するか)なら信徒でもできる。しかし、それではイエス・キリストを信じた人を教会につながらせることにならないから無責任になる」と言われました。また「教会というバックが無ければ、祈られて教会から送り出されることがなければ、だれもあなたがどういう人かわからないから奉仕者として迎えることはないだろう」とも言われました。教会がないと信仰はやがてなくなるか、ひとりよがりになることも心配なようでした。同じようなことは別の教団の女性の幹事からも言われたことがあります。
私は今、あるショップの店長としての仕事をしていますが、そこにも確かに主の導きを感じます。それは接客だけではなく、広告の原稿に載せるキャッチコピーから社長や他支店との交流に至るまで、与えられた大切なものとしてこの仕事を受け止めています。特に私は、大学を卒業してすぐに結婚しましたので、社会人としての経験が乏しいと言えます。ですから今、私は本当に重要な訓練をしていただいている、このことが絶対に必要だったとわかる時が来ると確信しています。
しかし、献身者が仕事を持つことを教会は喜びません。それでは、社会に献身して教会に献身することにならないからです。しかし、私は伝道・牧会する者こそ社会を知る必要があると思います。多くの人々が聖書やイエス・キリストに興味を持っていながら、教会の敷居が高いと感じてイエスのみもとに来ることができないでいます。これは社会を知らずに的外れな伝道・牧会をしているからです。教会に所属して献身者としての奉仕をしなければもったいないとも言われましたが、もとはと言えば出たくて出たのではありません。出ざるを得なかったことに何か主のご計画があったのだという信仰を今は持ちつづけたいと思っています。
【返信】
(T)何のために伝道するのですか?
まず初めにはっきりさせておきたいことがあります。それは、わたしを含めてコイノニア会は、キリスト教の教団や教会のあり方を批判したり否定したりすることはしません。現にコイノニア会の中には、既成の教会や教団に所属している人たちが参加しています。ただし、これもはっきりさせておきたいことがあります。わたしたちは教団や教会組織がどうしても必要だとは考えません。はっきり言えば、わたしたちは、新約聖書にあるキリストの「からだ」としての交わりのエクレシア(教会)と組織としての教会制度とを区別しています。ですから、教会制度や組織が必ずしも必要でないと言うのは、交わりとしての教会/集会がなくてもいいという意味ではありませんから注意してください。またわたしたちの交わりには、聖餐と滴礼の洗礼も含まれていることも言い添えておきます。イエス様を信じて御霊に導かれて歩むためには、教会制度は、あってもいいが、なくてもいいのです。
このことを頭に置いた上で、教団の伝道師や幹部の人があなたに語った「無教会批判」を読んで、気になることがあります。それはその人が、職業を持ち普通の社会生活をしながら伝道することなら「信者でもできる」と言っている点です。これに続く発言から判断すると、この人は、伝道者の使命とは「人を教会(組織)につながらせる」ことだと考えているのがよく分かります。
これがカトリックの神父さんの発言ならよく分かります。カトリック教会では、ローマ法王は、いわばこの地上でイエス・キリストの代理人です。救いはこの教会の中にしかありませんから、救われるためには教会に参入しなければなりません。そこでは「教会に入る」ことが「救い」ですから、入ったその時点で、その人の救いは完成します。後は教会の言うとおりに従うだけです。また神父さんは独身で聖職者の誓いを立てていますから、平信徒とはっきり区別されています。聖餐も洗礼も秘蹟も正規の聖職者の手によって与えられるのでなければ認められません。ここでは「伝道」とはイエス様を伝えることではありません。そうではなく、人を「教会へ連れてくること」です。ここでは教会は絶対的な権威を持っています。だからこの教会によって叙任された聖職者は、この教会の権威に支えられていますから、平信徒との間には(おそらく天国でも)厳然とした区別があります。わたしたちコイノニア会の有り様は、ある意味で、このカトリック教会のちょうど正反対の対極にあります。けれどもわたしたちは、カトリック教会を否定しているのではありません。わたしが組織としての教会を否定しないと言ったのはこの意味です。ただし、そういう教会に頼らなくてもイエス様の救いは一人一人に与えられるというのが、わたしたちの信仰です。
なぜカトリック教会の例を持ち出すのかと言えば、その伝道師の言っていることは、まさにカトリックの教えと全くと言っていいほど同じだからです。ただし、教団の組織と規模と歴史と権威においては、カトリック教会とその教団とは、失礼ながら雲泥の違いがあると思います。いったい「伝道」とは、だれが、だれのために、またなんのためにするものでしょうか? <教会に>任命された人が<教会のために>する。これがカトリックの答えです。イエス様の<救いを体験した>人が、<その救い>を他の人に伝えるためにする。これがわたしたちの答えです。その伝道師が「無教会」のやりかたなら「信者でもできる」と言ったのは、わたしたちのこういうやり方を指していると思います。しかし、「信者でもできる」そのことが、その伝道師には「ほんとうに」できるでしょうか? 人を自分の教会へつながらせることを使命だと信じている人が、伝えられた相手が、本当にイエス様によって救われて、それから後も、イエス様がその人を導いてくださるままに、その人なりの信仰を保ち続けることを心から望むとあなたは考えますか? カトリック教会では、救いは教会に入り洗礼を受けたときに完成します。しかし、わたしたちの場合には、救いの達成は、イエス様を信じたそのときから「始まる」のです。結婚式を挙げたときに、結婚が完了するのではなく、式を挙げたときから、イエス様とその人との本当の霊的な信仰生活が始まるのです。「教会生活」のことではありません。イエス様との「霊的な交わり」のことです。
教団に所属していないと、誰もあなたを伝道者だと認めてくれないというのはそのとおりです。逆に言えば、特定の教団によって認められているからこそ、その教団の人々はあなたの話を聞いてくれる。こうその人は言いたいのです。これを言い換えると、人々があなたの話を聞くのは、あなたが教団によって認められているからであって、「あなたがあなただから」ではないのです。ところがわたしたちのやり方だと、もしもあなたが主に祈って語ることによって、たとえ一人でも二人でもあなたの話を聞こうとする人が出てきたならば、それは「あなたが」、自分の信仰を語ったからです。言い換えると、あなたの言葉を通じて、主様が働いてくださったからです。そうでなければ、人はあなたの言葉に耳を傾けません。この場合、伝道は、主様があなたを通じて働いてくださらなければ、絶対に不可能です。そこが、今のあなたのやり方とその伝道師のやり方との根本的な違いです。
教団の権威に支えられてイエス様を説くことと、自分を通じて働くイエス様を信じてイエス様を伝えることと、どちらが責任ある伝道で、どちらが無責任な伝道だとあなたは思いますか? 教会が責任をとってくれるからその人は無責任ではなく、あなたを通じてイエス様が働いてくださるやりかたのほうが無責任だとあなたは考えますか? これだけは断言しておきましょう。わたしたちのやり方は、決して「無責任」ではありません。なぜなら、主様がわたしたちを通じて直接働いてくださらなければ、そもそも責任をとらなければならない人は誰一人出てこないからです。だから安心してください。逆に、もしもひとりでもあなたの語る言葉を通じて主様を信じる人が出た場合には、あなたはその人に対して、おそらく一生責任を負うことになるでしょう。だからわたしは、その伝道師の「無責任」発言を聞いたときに、びっくり仰天しました。そして逆にこう考えました。「信者でもできる」このような伝道をその伝道師は、はたしてできるのかと。その気になればできましょう。しかし、教会の組織に依存している伝道師が、はたしてその気になれるかどうか、わたしには分かりません。ついでながら、わたしたちのこういう伝道のやり方は、「自分自身がほんとうにイエス様に献身して」いなければ、決してできません。わたしたちは「献身」という言葉を「この意味で」遣っています。教会組織に加わっているかいないか、職業に就いているかいないかなどは、わたしたちの言う意味の「献身」にとっては、どうでもいいことなのです。
(U)具体的にどう違うのですか?
歴史的に見れば、現在のキリスト教会は、もともとロシア正教とカトリック教会との二つがあって、16〜17世紀以降になって、ルーテル教会とカルヴァン系の改革派教会とイングランドの国教会(聖公会)、これら三つの教団が成立しました。いずれも、イギリス、ドイツ、スイスなど、「国家的な」共同体を基盤とした教会組織です。それ以外の新教の各派は、バプティストもメソディストも含めてすべてが、現在わたしたちが行なっているコイノニア会のやり方からスタートしました。実は、このやり方は、イエス様の御復活の直後、原初のキリスト教の集会が行なっていたやり方に近いのです。ですから、もしも、その伝道師の所属する教団が、プロテスタント諸派の教団であるのなら、今のあなたのやり方を批判するどころか、逆にその人こそ、自分の教団のスタートの精神に立ち返るべきではないでしょうか。
カトリックを別にすれば、キリスト教会にとって絶対に必要なものは、聖書と祈りとキリストの御霊のお働きの三つです。コイノニア会もどの教団も、これなしにキリスト教の教会とは言えません。しかし、教団形成にとって必要なものが、これ以外に三つあります。会堂と神学校と教団の教義です。教義を持って教団を造り、その教義に従う聖職者を神学校で育成する。それから信者を集めて会堂を建設することです。会堂と教義と神学校、この三つが、コイノニア会にはなくて、教団にあるものです。コイノニア会に会堂はありません。一人一人が集まる交わり(コイノニア)が、神の教会堂です。それは「場」であって「場所」ではありません。コイノニア会には神学校はありません。全員が、ひとりひとり自分で聖書を学ぶからです。だから卒業もありません。信仰の学びは一生続くからです。コイノニア会に教義はありません。イエス様のみ名によって与えられる御霊の働きが教義だからです。ですから、聖書を絶えず自分で学ぶこと。祈ること。そして交わり(コイノニア)を持つこと。これが「ひとりよがりにならない」ための大事な方法です。
けれども、もしも教団の聖職者たちが、聖書を自分で学び、祈り、御霊の働きを求めることを忘れるなら、いったいその会堂と神学校とはどうなるでしょうか? それよりも、もっと心配なのは、その教団に所属する一人一人の信仰者たちです。彼らはいったい、何のためにイエス様を信じて、何のために職業を持ち、何のために自分の信仰生活を送るのですか? 教団に奉仕するためですか? それとも自分自身が、イエス様にあって、それぞれに導かれることで、霊的に成長するためですか?
会堂を建設し、神学校を建て、教義を造ったなら、その伝道のやり方も、コイノニア会とは全く違ったものになります。教義に反する者やはずれる者を受け入れることはできません。信者の中から、神学校に入る者を絶えず募集し続けなければなりません。神学校と聖職者と会堂とを維持する経済的な収入がなければなりません。コイノニア会には全く必要のないこれらのことに成功しなければ、教団は成り立ちません。これは「伝道」ではなくて、教団経営です。この能力と努力が要求されます。献金募金を集める能力、信者を獲得する能力、信者を神学校に導き入れる能力、これが有能な聖職者に要求されます。これができない人は教団では失敗者です。ですから教団に向いている人と向いていない人とがいます。極端な言い方をすれば、教団を株式会社として、聖職者は、信者獲得のセールスマンとして、戸別訪問でも何でもして、教義を売りまくる、それくらいの覚悟が要ります。現にアメリカでは、こういうビジネスモデルが、教団形成の方法に応用されています。一人の信者などは問題になりません。1匹の羊よりも、100匹、100匹よりも1000匹、万単位の羊と億単位のお金が必要です。わたしたちはこれを「宗教」と呼びますが、「信仰」とは呼びません。
繰り返しますが、わたしたちは、こういうやり方を否定はしません。能力ある人、このやり方で主に用いられる人は、これに成功しています。いいことだと思います。しかし、こういうやり方とは、正反対のやり方も信仰のために大事なのです。ヨーロッパの国家規模の教団では、常に自給自足のミニ修道会が存在しました。自分の手で働いて生活しながら瞑想と霊性を求める生活者の集まりです。コイノニア会は、現在の、新教の「修道会」に近い存在なのかもしれません。
あなたはイエス様に召された方ですから、イエス様の導きに従うのが何よりも大事だと思います。その結果、教団に加入することもできます。あるいは自分で教会堂を建ててて、独立した教団を形成することを志すこともできます。あるいはわたしたちのようなコイノニア会のやり方を貫くこともできます。それはあなたが自分で決めることです。なぜならあなたは自由だからです。ただし自由にはそれなりの責任が伴います。それなりの厳しさがあります。それでも、信仰生活にとって、こういう自由ほど有り難いものはありません。これがわたしの長年の実感です。これであなたの疑問にお答えすることができたとは思いませんが。参考にはなると思います。どうぞ祈りのうちに、ご自分の道を見いだしていってください。
【再来信】
先日、先生にメールを送った後、私も伝道とは何かということや、教会とはいったいなんだろうかということなどを考えていました。そして思いました。教会で開く伝道集会や公園伝道というやり方、「キリスト教会です。」と言って始める伝道よりも、むしろ生活の中で証しをしつつイエス・キリストを伝えるほうがはるかに難しいことではないのかと。「信徒でもできる」という言葉は、私もそれを聞いたとき、なぜかとても嫌な感じがして思わず眉をひそめてしまいました。私自身を振り返ると決して信徒でもできることができているとは言えません。まだまだ足りない所がいっぱいあります。だから私は、しばらくの間、信徒でもできる伝道が本当にできるようになるまで、今の生活を続けていけばいいと思いました。