【来信】
わたしはたまたま『打ち壊されていない呪い』(レベッカ・ブラウン、ダニエル・ヨーダー共著。エターナル・ライフ・ミニストリーズ発行。訳者不明。発行年不明。)という本を手に入れました。読んでみると、サタンの呪いのことがいろいろと書かれてあり、特に77頁あたりから、数頁にわたって書かれてあることが気になりました。わたしはこの間、京のある寺で、竜の天井画を見せてもらいました。しかし、これはいけないことだったのだと悔い改めさせられました。これはこの本を読む前のことでした。しかし、今度、日本で大英博物館の展示が開かれた時にも、先にイギリスのケンブリッジの博物館を見た時に、古代の偶像ばかりなので、背筋が冷たくなったのを思い出して、大英博物館には行きませんでした。悪霊の働きを感じるものには、近づかないほうがいいと思います。
【返信】
お便りと著書を受け取りました。著作に目を通してみました。以下の三つに分けて、できるだけ簡単にお答えすることにしましょう。
【T】この本に書いてあること。
この本に書いてあることは、大きく二つに分けて説明できると思います。
(A)著者によれば、キリスト教以外の宗教の人たちは、文化的に悪霊に支配されています。「文化的」というのは、その人たちのあるところが悪霊的であって、ほかのところは悪霊的ではない、という意味ではありません。そうではなく、その国の過去、現在、そして未来も全部をひっくるめて、全体として悪霊的であるという意味です。仏教の世界、ヒンズー教の世界、イスラムとアラブの世界、儒教の世界、日本、中国、インド、東南アジア、中近東のイラン、イラク、ヨルダン、エジプト、アフリカなどなどと、人類の太古から現在にいたるまで、そこに生まれ育った人類は、ことごとく悪霊に支配されていると言うのです。あなたは、このような信仰をイエス・キリストのみ名による信仰だと思いますか? この著者の内に働く霊は、主様の聖霊だと思いますか? 聖書の神はこのような神だと思いますか? 実はこの著者の見方に通じる考え方をする宗教が、1世紀から2世紀にかけてありました。グノーシス思想と呼ばれるのがそれです。教会はこれと闘って、グノーシスは異端とされました。
(B)著者によれば、人間は先祖の犯した罪の呪いを受け継いでいます。現在の自分の有り様のことではなく、自分の先祖の呪いを全部、今の自分が受け継いでいるのです。この考え方は、日本の新興宗教にそっくりです。聖書の福音だけを例外にして、日本のあらゆる宗教は、ことごとく「先祖からの因縁」を問題にします。何か不幸なこと、おかしなことが起こると、必ず先祖の因縁を持ち出して、その祟りだというのが、日本の宗教の特徴です。現在も日本には、このような新興宗教がいろいろとあって、人が不幸になったり、病気になったりすると、その家を訪れて、先祖の祟りを持ち出して、その家の人たちを恐怖に陥れて、自分の教団に誘い込もうとします。著者は、日本の宗教を悪霊的だと言います。ところが、先祖の罪を受け継ぐと言うこの著者のやり方と、日本の新興宗教とは、みごとに一致しています。ただし、著者のほうはもっと悪質です。なぜなら、日本の宗教では、先祖の因縁は、千年以上前から続いていますから、ありとあらゆる対処の仕方が考え出されています。ですから、日本の新興宗教は、キリスト教やイスラム教など、ほかの宗教を悪魔や悪霊だとは見なしません。逆にこれらを取り込んで、自分たちのカミであると言ったりします。ところが、著者の言う先祖の呪いは、自分たち以外のほかのいっさいの宗教が、先祖の呪いにかけられていると言うからです。あなたは、日本人に伝わる先祖の因縁と著者の言う先祖の呪いと、どちらが優れていて、どちらが間違っていると思いますか?
【U】この本に書かれていないこと。
(A)次に、この本には書かれて「いない」ことを二つあげます。著者は、先祖や文化的な呪いについて、アメリカやキリスト教の国「以外の」ことをいろいろと書いていますが、アメリカのことは書いていません(特殊なオカルトのことは書かれていますが)。例えば、インディアンの悪霊について書いていますが、そのインディアンを残酷に迫害してきた白人の先祖のこともこれらの先祖からの呪いもいっさい書いていません。またわずか150年ほど前までは、アフリカから、何百万という黒人を恐ろしく残酷な仕方で船に乗せて運んできた上に、奴隷として残酷な扱いをしたこと、この最も恐ろしいアメリカ人の先祖の罪とこれの呪いのことはいっさい書かれていません。また、クリスマス・ツリーが、北欧の異教の伝統から出たこと、ハローウイーンの祭りが死者の霊を呼び戻す奇怪な風習から出たこと、だから、もしも異教的なものを悪霊として排除するのなら、アメリカ人は、クリスマス・ツリーを飾ることも、ハローウイーンも止めなければならないことになります。こういうことは書かれていないのです。日本の扇子の絵のことから判断すれば、著者は、日本のことをほとんど知らない人です。そのような人が、日本の文化を悪霊的だと書きながら、自分が生まれ育って、最もよく知っているアメリカ人の先祖の罪と呪いのことも現在のアメリカの罪なども何一つ指摘していないのはおかしいと思いませんか?
(B)次に、これが最も大事なことですが、この本には、イエス様の十字架のこと、その十字架による贖いと罪の赦しのことが何も書かれていないのです。私が、この本を読む時に、最も注意したのはこの点です。イエス様の福音の根本である十字架による罪の赦しを語らない人は、イエス様の聖霊やイエス様の御霊を口にしてはいけません。なぜならそれはキリストの御霊ではないからです。パウロがガラテヤ人への手紙で、「それは福音と言うべきものではなく、ただある人たちがあなたがたをかき乱そうとして、違った福音を伝えているだけである」と言っているのが、まさにこのことです。この場合に、モーセ律法を持ち出すと呪いの迫力はいっそう強くなります。だからパウロは、ガラテヤ人への手紙で、このような律法主義的で、異教を呪いと呼ぶ人たちのことを厳しく批判したのです。この本の著者の内に働く霊は、冷たい裁きの霊であって、イエス様の慈愛の御霊ではありません。私は、天竜寺の竜の絵を見ても、何も不安や恐れを抱くことはありません。しかし、この本を読むと底知れない憎悪の迫りを覚えます。あなたがこの本を読んで、天竜寺のことで不安を感じるお気持ちはよく分かります。ここに流れているのは、憎悪と裁きの霊であって、キリストの赦しと愛の御霊ではありませんから。その理由は簡単です。十字架の贖いを見過ごして、悪霊のほうばかりに気をとられているからです。本の題名は、「断ち切られていない呪いの鎖」「破られていない呪い」と訳すのが正しいでしょう。イエス様が来られて、サタンの呪いを「断ち切った」こと、人間を束縛する呪いの呪縛を「打ち破ってくださった」こと、このことは完全に無視されているのです。だからここで書かれているキリストは、わたしたちを裁き断罪する「キリスト」であって、救いのキリストではありません。サタンの呪いを破るのは、イエス様ではなく、わたしたちが自分でやらなければ救われないことになります。
(V)どうすればいいのでしょうか?
(A)ここで、「あなた個人」のことについて考えてほしいのです。問題は、だれが何を言っているのか、またわたしのしたことがどうかではありません。一番肝心なのは、「あなた自身は」この問題をどう思うか? ということなのです。あなたが竜の絵を見たことは、主のみ前に罪にはなりませんから、安心してください。その証拠に、あなたは、それ以後もずっと平和な気持ちを保ち続けることができていたからです。ただしこの本を読むまでは。しかし、もしもこの本を読んで、竜の絵を見たり大英博物館の展示を見たりすることについて、「あなたが」、著者のことではありません、「あなた自身」が、恐れを抱くのなら、その時、竜の絵を見るのは「あなたにとって」罪になります。見てはいけません。イエス様の目から見て、最も大事なのは、あなた自身の信仰をあなたがどう判断するのか、すなわち、「あなたの良心」だからです。問題は、あなた自身の良心のほうなのです。これもパウロが指摘しているとおりです。なぜなら、あなたは、あなたが信じるとおりのあなたに「なる」からです。そのあなたの良心が、主様の前に問題なのであって、ほかの誰かの意見など全く関係がありません。その人の信仰はその人の責任であって、あなたの責任ではありません。自分がどう信じるのか? 徹頭徹尾これです。だから「すべて信仰によらないことは罪になる」とパウロは言うのです。
アフリカの原住民には、いろいろとしてはならないタブーがあって、それを破ると死ぬと考えられています。そして、実際そのタブーを破ると、本当にその人は死ぬことがあるのです。しかし、わたしたちが行って、同じことをしても、何にも起こりません。人間は、その人が信じたとおりのものに「なる」からです。もしもあなたが、日本の文化に悪霊が潜むと思い、そう信じたなら、あなたは「そのような」人間になります。人はその信じるとおりのものになるからです。だから、信仰や宗教は、正しく信じることが大事なのです。人は自分が本当に恐れるものを拝んだり、崇めたりします。そこから祟りや呪いが来るのを恐れるからです。だから、あなたがサタンの呪いを怖がるなら、あなたはサタンの支配から逃れることはできません。政治でも同じです。北朝鮮の人たちが、金日成を怖がっている間は、彼らは、金日成の呪縛から逃れることはできません。悪霊の呪いを恐れる者は、その呪いの呪縛から逃れることができません。逆に言えば、人々を怖がらせておくなら、その権力者は安泰です。サタンの呪いを怖がらせておけば、サタンの地位は安全です。
(B)ではどうすればいいのでしょうか? ここで改めて、あなたがイエス様をどのように信じているのかが問われます。わたしには、わたしの信仰とわたしに与えられた御霊の導きがあります。わたしは、自分の判断ではなく、御霊のごまかしのない導きを祈ります。わたしは、お寺で竜の絵を見ても、別に信仰が乱されたり、おそれを抱くことがありません。しかし、この本を読むと、恐れより嫌悪を覚えます。冷たい独りよがりの裁きの霊を「感じる」からです。だから、自分に与えられたイエス様の御霊にあって、これはイエス様からの御霊ではないことが分かります。あなたは、この本を読んでどう感じますか? 喜びと平安を感じますか?
だから、イエス様の十字架と罪の赦しから降る慈愛の御霊に導かれる祈りが、今のあなたには一番大事なのではないでしょうか? あなたがイエス様をどう思いどう信じるかは、あなたが決めることで、ほかの誰かの意見で決まるものではありません。ちょうど、あなたのご主人のことを、あなたは自分で判断し、自分で決めるべきであるのと同じです。いろいろな人の意見を参考にして、自分の夫の判断をするなら、あなたは自分の夫を信じることができなくなるのではないでしょうか? 人はそれぞれ、あなたのご主人のことで、違ったことを言うからです。ですから祈りによって、今一度、自分自身の信仰に立ち返って、イエス様の十字架の赦しの信仰を一体自分はどう信じているのだろうと、自分をそこへ引き戻すよいチャンスになるかもしれませんね。そこから、本当のイエス様の御霊の愛が、さらに深くあなたに注がれる機会となるのではないでしょうか?