【来信】
先週は母教会の礼拝に行ってきましたが、そこで大きな違和感がありました。教会堂という祈りの場に集っているのに、祈りも賛美も「ばらばら」であったのです。賛美も、調和など考えず、個々人が歌いたいように歌っていました。共同の黙祷の時間でも個々人ばらばらに祈っていましたし、司会者や献金をささげる係りの人も、「教会としての祈り」ではなく、「個人の祈り」をしていましたし、人が祈っていても私の隣に座った人は異言で自分の祈りをしていました。「集っているのに『共に』していない」と強く感じました。私自身、集うことが少なくなり、家で個人的にばかり祈っていると、「共同の祈り」から離れてしまったのですが、もともと私の母教会には「共同の祈り」がなかったのでは?と思います。キリストの体としての教会(エクレシア)は、「私たち」として祈ると思います、しかし、母教会や私が「私たち」と祈るとき、誰を思っているのだろう?と考えると、「私」と「私たち」の区別がついていないのではと思いました。
先日、ボンヘッファーの「共に生きる生活」を読みましたが、その中で「ひとりでいることのできない者は、交わりに入ることを用心しなさい。」「交わりの中にいない者は、ひとりでいることを用心しなさい。」という命題がありました。後者は、「召しはあなた独りに向けられたのではなく、あなたは教会(ゲマインデ)の中に召し出されたのである。召された教会において、自分の十字架を負い、祈るのである。あなたはひとりではない」ということが言われており、「ただ交わりの中にいる時のみ、わたしたちはひとりであることができるし、ただひとりである者のみが、交わりの中で生きることができる」という認識が書かれています(ディートリヒ・ボンヘッファー著、森野善衛門訳『共に生きる生活』新教出版社)
「集っているのにばらばら」とは、教会に限らず現代社会・現代の若者・社会問題にも多くあることだと思います。コイノニア会では、イエス様の御霊は「共にいる」「交わりの」御霊だと教わりました。私は「共に祈る」「交わる」ことができるのだろうか?と考えています。自分はコイノニア会の交わりにも与かっています。一番の交わりの場は自分の母教会でありたいのですが、母教会の交わりはプレッシャーがあり辛いです。私はどこに「交わり」を求めたらよいのだろう、そもそも「交わり」とは何だろう、と、考えています。
【返信】
メール読みました。お気持ちよく分かります。あなたが交わり(コイノニア)を求めているのは、あなたがようやく自分自身の信仰の有り様を見いだして、これを人と分かち合いたいという想いに動かされ始めたことを意味します。よかったと言うか、とにかくおめでとうと申し上げたいです。なぜかと言えば、あなたはようやく「そこから」出発できるからです。「一人でいることのできない者は、交わりに入ることを用心しなさい」というボンヘッファーの言葉は、自分自身の信仰を見いださないままでは、人と本当の意味での深い霊的な交わりに入ることができないという意味です。
「交わりの中にいない者は、一人でいることに用心しなさい」というのは、人が本当に自由な主様の御霊にある時には、人との交わりを求めずにおれなくなるという意味です。その交わりが、母教会の中で見いだされるのなら、それは幸いなことです。しかし、もしもそれができないのであれば、あなたはその中にとどまって、交わりを「創り出す」か、あるいは、従来の教会を離れて、自分で交わりを「創り出す」ことを求められているか、どちらかになります。
なぜこのように言うのかと言えば、あなたが今見いだしている霊性の世界は、実にさまざまな要素から成り立っていて、日本文化の有り様をも含む、広くて深いものだからです。これを受け入れたり理解したりできる人は、決して多くはないでしょう。あなたの周囲にいる人たちの中でもそれほどたくさんはいないと思います。このような場合によくある例として、自分にあった教会を求めて「教会巡り」をすることです。しかしこのやり方はあまり感心できません。結局、どこの教会にも、それなりの矛盾や問題があって、一つの面では満足しても別の面で満足できないという状態が生じるからです。
結論から言えば、せっかく心の平安を取り戻すことができた今は、しばらくの間、現在の態を保ちつつ、仕事も含めて自分の生活を落ち着いたものにするほうがいいのではないでしょうか。教会は、行くのは簡単ですが、止めるのは決して簡単ではありません。あなたに「気のあった」信者でも未信者でもいいから二人、三人の仲間がいれば、月に一度の簡単な交わりでも形にとらわれずに行なうことも考えられます。もしも与えられるなら、ですが。自分が宗教的かそうでないかは、あまり気にしないでください。それよりも、思いがけないところに、あなたの信仰を分かち合う友達がいるかもしれません。
【再来信】
お返事のメッセージありがとうございます。自分自身、交わりに違和感を覚える状況に苛立っていましたが、ご返信を読んで不思議な喜びと平安がありました。信仰告白をして洗礼を受けて数年ですが、ようやく、「自分の足で主の御前に立つ」ことが見えてきたと思います。自分の信仰の歩みを振り返ると、「その当時」は辛くて仕方がなくて、今でも苦い思い出ですが、それらは「今」に通じる道なのだと感慨深いです。迷い悩みや傷つく事件をきっかけにコイノニア会に出会ったのもその一つです。ありがとうございます。