188章 ベタニアでの塗油
マルコ14章3〜9節/マタイ26章6〜13節/ルカ7章36〜50節
【聖句】
■マルコ14章
3イエスがベタニアでらい病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壷を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
4そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。
5この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。
6イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
7貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
8この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。
9はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
■マタイ26章
6さて、イエスがベタニアでらい病の人シモンの家におられたとき、
7一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壷を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。
8弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄使いをするのか。
9高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
10イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
11貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
12この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。
13はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
■ルカ7章
36さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
37この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壷を持って来て、
38後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
39イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
40そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたがたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
41イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
42二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
43シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
44そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
45あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。
46あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
47だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
48そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
49同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。
50イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
【講話】
■受難物語と女性
イエス様の福音伝道が、パレスチナに「限られた」範囲にある間は(マタイ10章5〜6節)、比較的、家父長的な思想が強かったのですが、受難物語に入ると、福音が世界的な広がりを帯びるようになります(マタイ24章14節)。イエス様の十字架は、女性たちがその証人となり、イエス様の復活も女性たちが証言するのです。出来事が危機的な様相を帯びるようになると、男性よりも女性のほうが、その直観的な洞察力を発揮するようになるのでしょうか〔ジョン・ノウランド『マタイ福音書』パテル・ノステル出版(2005年)1056〜57頁〕。
■イエス様への奉仕
イエス様が、「アーメン、私はあなたがたに告げる」と、重々しい言い方で語るのは、この女性の名前でもなければ、容姿でもなく、その思想でもなければ、その言葉でもなく、その経歴でも生き方でもありません。イエス様が言われるのは、女性が行なった「イエス様自身に向けた彼女の振るまい」です。「その時、その場で」行なわれたこの出来事は、それがイエス様に関わることであれば、「時と所を超えて」(「全世界に」の意味)、「福音」として語り継がれます。「イエス様の出来事」が「福音」だからです。この無名の女性は、おそらく「期せずして」行なった業(わざ)によって、なんと、「イエス様の死と葬り」に関わることができたのです。それがどんなに重い意味を帯びるかは、ここでのイエス様の言い方が、ほとんど、最後の晩餐での「聖体授与」(ユーカリスト)の御言葉を想わせることでも分かります(ルカ22章19節/第一コリント11章24〜25節を参照)。彼女は、この業を通じて、イエス様と共に「永遠に生きる」のです。
■イエス様の出来事を認識する
ルカの今回の出来事への扱い方は、とりわけ興味深いです。ファリサイ派シモンは、女性の行為に憤慨する以上に、「この男は」と、内心でイエス様の「理解(認識)不足」を蔑(さげす)んでいます。シモンのこの「認識不足」は、イエス様に見透(みす)かされ、シモンは、思いもよらない仕方で、眼前の事態への「自分の理解の足りなさ」をイエス様によって暴かれることになります。
イエス様の福音に関わる出来事は、イエス様の御霊によって生じる「霊的な出来事」です。霊的な出来事とは、これを見る人が判断し、認識する以上に、判断する人自身の認識の仕方のほうが、逆に出来事によって「判断され」て、その人の隠れた想いが暴露される結果になります(ヨハネ16章7〜11節)。しかし、御霊の出来事は、これを認識する人の隠された内面を暴露するだけでなく、暴露されるそのこと自体が、そのまま、その人への「赦し」となって働くこと、この事を見落としてはなりません。イエス様の出来事は、単なる「ソクラテス的な認識不足の暴露」とは異なるのです。ヨハネ福音書は、この御霊のことを「パラクレートス」(助け主/慰め主/弁護するもの)と呼ぶのはこのためです。
■感謝と賛美
今回の女性は、イエス様のお側(そば)に出ると、感極まって、自分でも思いがけない「とほうもない」ことをしでかします。その行為は、彼女がどういう者であるかを人前で「隠す」よりも、逆に「表わす」結果になります。だから、これは、彼女が予め計画し意図していたことではなく、自分でも思いがけず「させられた」行為です。
ヘブライ語の「感謝する」には、このように、人前で「告白させられる」という意味がこめられています。「感謝」と「賛美」は、自分の「いい格好」を人に見せるための芝居がかった仕草ではなく、神の御霊のお働きに感じ入って、思わす行なう御業なのです。クリスチャンが、手を上げて「ハレルヤ」と叫ぶのは、まさにそういう事態を証しするものです。祈りも、賛美も、神への感謝も、自分の内面が暴露され、本心が人前に出ることを恐れない、怖がらないところに初めて、可能になります。賛美したり、感謝したり「できる」のは、御霊のお働きが、無限の「赦し」を伴うからです。自分が、赦されて贖われたことを人々に証しする。これが、クリスチャンの感謝と賛美の「まこと」です。
【補遺】「感謝する」から「愛する」へ
共観福音書講話と注釈へ