190章 最後の晩餐への準備
   マルコ14章12〜17節/マタイ26章17〜20節/ルカ22章7〜14節
                     【聖句】
■マルコ14章
12除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
13そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
14その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
15すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
16弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
17夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
 
■マタイ26章
17除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。
18イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」
19弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。
20夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。
 
■ルカ22章
7過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。
8イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた。
9二人が、「どこに用意いたしましょうか」と言うと、
10イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き
11家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』
12すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」
13二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
14時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。
 
              【注釈】
            【講話】
■「過越」について
  今回の箇所で、最大の問題は、いったい「最後の晩餐」は、何時どのように行なわれたのか? という疑問です。実は、これが、現在の学界でも解決していない「難問」です。ヨハネ福音書では、最後の晩餐は、ニサンの月の14日で、過越の犠牲として献げられる小羊がまだ屠られる前の夜のことになります。これに対して、共観福音書の記述では、晩餐は、「過越の食事そのもの」であって、過越の小羊がすでに屠られた後の夕刻から夜にかけてであるという印象を与えます。
 イスラエルの人が祝う「過越の食事」は、14日の午後に神殿で屠られ、聖所の祭壇で焼かれた羊の肉を(規定では、一歳の傷のない小羊、または子山羊)、祝いのワインと共に、その日の夕刻から夜にかけて、家族そろって食べる祭儀のことです。この祭りの源は、かつてイスラエルの民が、エジプトで奴隷状態にあった時に、主(ヤハウェ)なる神が、モーセをお遣わしになって、エジプト王(ファラオ)の暴政から民を救い出して荒れ野へ導き、エジプトによる隷従からイスラエルの民を解放した喜びを祝うものです。これを「出エジプト」、英語で"Exodus"と言います。
 旧約聖書によれば、現在の3月から4月にかけてのニサンの月の14日の午後に、傷のない小羊を犠牲として屠り、聖所の祭壇で焼いて神に捧げたその後で、家族ごとにその肉に与(あずか)る行事を「過越(の食事)」(英語で"the Passover")と呼びます。小羊を屠る日の翌日(15日)からは、種入れぬパンを食べる「除酵祭」と一体化した「過越の祭り」の週になります。聖書は、過越を「何日にどのように祝う」のかを繰り返し教えています。
■最後の晩餐の「日」について
 では、何が問題かと言えば、ヨハネ福音書が証しするとおり、最後の晩餐が、過越の小羊の奉献が始まる(14日の午後)以前のことであれば、最後の晩餐は、「過越の食事」ではなく、したがって、晩餐の食事には、実際の犠牲の小羊の肉は、出されていなかったことになります。ところが、共観福音書では、最後の晩餐が、「過越の食事」そのものであったかのように読むこともできます。なお、 「最後の晩餐」(the Last Supper)は、いわゆる「聖餐」(the Eucharist)の「主の晩餐」(the Lord's Supper)と同じではありませんから、ご注意ください。
 
「除酵祭の第1日目、すなわち、過越の小羊を屠る日に、弟子たちは、イエスに『過越の食事をなさるのに、どこへ用意いたしましょうか』と言った」(マルコ14章12節)。
 
 マルコのこの記述には、次のような三つの問題点があります。
(1)このマルコの記述では、「最後の晩餐」が、犠牲の小羊の肉を供したユダヤ教の正式な「過越の食事」そのものであったと受け取ることもできます。だから、そこには、過越の羊の肉が出ていたことになります。
(2)マルコは、「除酵祭」が、14日の小羊を屠る日から始まると見ています。もしも最後の晩餐が、正規の過越の食事であれば、小羊の犠牲が屠られる日は、14日の午後であり、過越の食事は、その夕刻から夜にかけてになります。「丸1日」が、ユダヤの夕刻から始まり、次の夕刻までであったとすれば、小羊の屠り(14日)と、続く夕刻以後の過越の食事(15日)とは、二日にまたがることになりますから、「除酵祭の第1日目、すなわち<=>過越の小羊を屠る日」では<ない>ことになります。
(3)ここで問題になるのは、マルコがが言う「丸1日」が<始まる>その「起点」は、夕刻なのか、それとも朝なのか? という問いです。マルコが、1日の始まる起点を「朝」に置いているとすれば、14日の午後に、犠牲を奉納する時刻も、続く夜の過越の食事も、同じ日に含まれますから、彼の記述の矛盾は解消されます。この場合、マルコ福音書と、これを基準にする共観福音書は、ユダヤの伝統的な夕刻を起点とする「暦の日」ではなく、ローマ式の太陽暦に準じて、「朝を」起点とする暦日に基づいて書かれていることになります。
 ローマの暦は太陽暦で、暦日は朝を起点としていました。ユダヤがローマの支配下に入ってから(前63年)、ユダヤもローマ暦の影響を受けていたと考えられますから、1世紀のユダヤでは、ローマ式に朝を起点とする暦日を採用していたと考えることもできます。このため、現在では、共観福音書は、ローマの暦日に準じているという見解もあります。
 ところが、マルコの記述は、この点について、それほど明白ではありません。なぜなら、ユダヤでは、安息日については、いぜんとして、夕刻から次の夕刻までの祭儀的な伝統に準じていたからです。だから、マルコ15章42節の「すでに夕方になったので・・・・・」は、1日の終わりが「夕刻」であったことを示唆しています〔Collins. Mark. Hermeneia. 777〕。マルコ16章1節では、「週の初めの日、日の出と共に」とありますが、この日の起点は朝でしょうか? マタイでは、マルコの記事を言い換えて、「安息日が終わり、その週の初めの日の明け方に」(マタイ28章1節)とあります。安息日が終わるのは、日曜の朝(明け方)ではなく、土曜の夕刻です。「安息日が終わり」は、「安息日の後に/遅くに」の両方に読むことができます。「明け方に」の原語は「まだ暗いうちに」の意味をも含みますから、マタイは、女性たちが、土曜の安息日が夕刻に終わると、その直後に、週の初めの日(日曜)が夕刻から始まる「まだ暗い夜に」墓を訪れたと考えたのでしょうか? それとも、安息日が終わったのが「朝だ」と言いたいのでしょうか?〔Nolland. The Gospel of Matthew. NIGTC.1246.〕 おそらく、夕刻に安息日(土曜)が終わり、週の初めの日(日曜)が、その夕刻から始まり、マグダラのマリアともう一人のマリアは、日曜の夜が明けるのを待ってから、墓を訪れたとマタイは見ているのでしょう〔Davies and Allison. Matthew 19--28. ICC.663〕。 このように、共観福音書の記述は、その全体をローマ式の朝暦(あさごよみ?)で統一して割り切ることができるほど明瞭ではなく、とりわけ、日取りの「起点」については、「意図的なあいまいさ」が見受けられます。
 先に指摘したとおり、ヨハネ福音書の記述と、マルコの記述を基準にした共観福音書の記述とは、「最後の晩餐」について、相互に矛盾するところがあり、この問題について、現在でも論争が続いています。最後の晩餐が、15日に始まる過越祭の初日であったとすれば、イエス様の十字架刑もその埋葬も、祭りの当日に行なわれたことになります。安息日制度を厳格に守る当時のユダヤの社会で、罪人の裁判と十字架刑、その上、「汚れ」と見なされる遺体の埋葬などが、尊い祭りの当日に行なわれることなど、はたしてありえるでしょうか? こういう疑問がでてきます。このため、現在では、ヨハネ福音書の記述のほうが史実に近いと見るほうが有力です。近年では、最後の晩餐についての共観福音書の記述をヨハネ福音書の記述と調和させようとする試みがなされています。なお、この件については、コイノニア会のホーム・ページ→聖書と講話→四福音書補遺→「受難週:ヨハネ福音書を基準とした日程表」をも参照してください。
■晩餐の祭儀性
 ヘブライ語でも、日本語と同様に、「朝夕」は「一日」を指しますが、24時間を表わす物理的な「暦日」に相当する用法は、ヘブライ語にありません〔TDOT(6)23.〕。イスラエルでは、「安息日」が、「夕方から夕方まで」(レビ記23章32節)と定められていることが、祭儀を執り行なう上での「1日」を決める重要な役割を果たしました。このため、ユダヤ教では、夕刻を起点とする「日取り」の習わしが定着するようになります(レビ記23章5節/出エジプト記12章6〜10節/ネヘミヤ記13章19節)。ただし、犠牲を献げる場合は、朝から翌朝までを「1日」と数えることになります(レビ記7章15節/同22章30節)。
 イスラエルでも、捕囚期以後のギリシア時代では、昼間と夜間は、それぞれ6時間の倍数の12時間として認識されますが、「日」は、そのような物理的な「時間」を表わすよりも、現実の生活にまつわる「季節/時節」とのかかわりと、星の運行などによる天文の祭儀にまつわる「吉」と「凶」によって判別されます。
 このように、祭儀を重視するイスラエルでは、「丸一日」を昼間と太陽を起点とする場合と、満月にちなんで月を基準にして起点を定める場合とが併用されてきました。だから、イエスの頃には、「過越の日」についても、この日を「朝」を起点とする場合と(6時から6時まで)、「夕/夜」を起点とする場合と(18時から18時まで)、ふたとおりが可能があります(「朝夕問題」は、現在でも議論が続いています〔TDOT (6)25〕)。 祭儀的な意義を帯びた「日」と、天文学でいう物理的な暦日の「日」とは、イエス様の頃のユダヤでは、まだ判然と区別されていなかった。こういう実態が見えてきます。とりわけ、「日」の<起点>については、一定した規格も規定も人々の間に浸透していなかったと思われます。現在の朝説が誤りだとは言いませんが、共観福音書の「日」は、その起点が、一律にローマ式の「朝」だと言えるほど事態が判然としていないのは確かです。
 イエス様は、最後の晩餐を企画した際にも、その晩餐の祭儀的な意義を深く考慮したと考えられます。イエス様は、弟子たちとの最後の晩餐を差し迫る過越の祭儀と重ね合わせることを意図した。言い換えると、イエス様は、最後の晩餐を、(夕刻を起点にした場合の15日の)過越の食事と、同じ祭儀的な意義を具えるものと「見立てた」。このように想定することができます。イエス様は、おそらく、ユダの裏切りと神殿祭司たちの陰謀を察知して、自分が、正規の過越の食事を弟子たちと共にすることが叶(かな)わないことを予知したのでしょう。このために、最後の晩餐が、過越の食事と同じ祭儀性を具えるよう意図したのです。ヨハネ福音書の晩餐の記事は、期日としては歴史的に正しいけれども、これが帯びる祭儀的な意義は、共観福音書が証しするとおりです。共観福音書には、晩餐の席に、実際の過越の小羊が供されていたという記述は一切ありませんが、その代わりに、イエス自身の肉と血が、祭儀的な「記念として」、弟子たちに供されます。これが史実に最も近い出来事だと考えることができましょう。
 しかし、このようなイエス様の意図は、受難物語が伝承される過程で、晩餐と過越の食事とを同一視する理解/誤解を生じさせたと思われます。共観福音書が書かれた頃のギリシア・ローマの世界では、朝を起点とする暦日が一般的に普及していたことを否定するものではありません。しかし、ちょうど70年の神殿喪失に前後する時期を中心に定められたユダヤ教の「ミシュナ」によれば、ラビたちは、現実に対応するために、伝統的な律法を柔軟に解釈しました。それでも、安息日が「夕から始まる」ことは遵守されました。過越の祭儀も、14日の午後に屠られた羊の肉は、「これに続く夕刻から」15日になり、過越の食事が守られています。除酵の規定については、日替わりの起点を「正午」に定めたラビも居たようです〔『ミシュナ』ユダヤ古典叢書。長窪専三・石川耕一郎訳。教文館(2005年)162〜164頁/447〜448頁〕。
 共観福音書の記者たちは、ユダヤ人、あるいはユダヤ主義を受け継ぐ人たちでしたから、最後の晩餐と過越の伝承の奥に潜む史実を洞察することできたと思われます。共観福音書には、晩餐の席に「(犠牲として屠られた)小羊の肉」が置かれていたという記述はありません。マルコ福音書の最後の晩餐は、多くの点で、イエス様の頃の正規の「過越の食事」と異なっているという指摘があります〔例えば、エドワルド・シュヴァイツァー『マルコによる福音書』NTD新約聖書注解。高橋三郎訳。ATD.NTD聖書註解刊行会(1986年)398頁〜399頁〕。だから、ヨハネ福音書と共観福音書は、晩餐の史実に関して、基本的に矛盾するものではありません。マルコ14章12節では、ユダヤ人のマルコは、過越の羊の犠牲と過越の食事を「一続きの祭儀」だと見なしたのでしょう。彼は、晩餐の「日(時)」を祭りの最初の日と見ていますが、その祭儀の物理的な「時間」には、それほどこだわらなかったのです。晩餐の日の「起点」についても「朝夕一如」で、柔軟に対応したのではないでしょうか。
 ヨハネ福音書が証しするとおり、史実としての最後の晩餐は、過越の小羊が屠られるその前の夕から夜にかけて行なわれました。したがって、そこには、神殿で屠られた犠牲の羊の肉はありませんでした。その代わりに、イエス様の肉と血が、弟子たちに供応されたのです。イエス様は、この晩餐に、過越の食事と同じ祭儀的な意義を与えましたから、共観福音書は、そのイエス様の意図を証ししているのです。
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