5章 律法と福音的霊操
          (東京集会2021年7月10日)
■律法の怖さ
 「律法」と言えば、わたしたちクリスチャンは、モーセの十戒を想い出します。日本語では、神と人との関係は「律法」、人と人との関係は「法律」、自然界は「法則」のように使い分けますが、「律法」も「法律」も「法則」も、英語では「ロー」(law)です。同じように、新約聖書でも、ギリシア語の「ノモス」です。だから、宇宙も、人間の社会も、神と人との関係も、同じ「ノモス」に支配されていることになります。
 人体には「健康のノモス」が働いています。例えば、脳の血管を血液が流れています。ところが、血管が詰まって血液が流れにくくなると、血管が破れたり、脳梗塞が起こります。健康のノモスは命の理法。守られれば祝福、破られると、その同じノモスが死を招くのです。これが「律法」(ノモス)の怖いところです。天地の法(ノモス)は、守れば祝福、破れば呪いに転じます。
 パウロは、わたしたちが「律法の呪いのもとにある」と言いました(ガラテヤ3章10節)。なぜでしょうか?人類は、国と国との平和を守らなければ、核戦争によって滅びる危険があります。平和の律法とは、イエス様が教えられた「敵をも愛するノモス」です。これを守れば人類に祝福が来ます。これを破れば滅びが来ます。脳でも心臓でも胃でも、どこか一箇所が働かなければ、人体のほかの部分が健康でもその人は死にます。膨大なコンピューターのプログラムも、一箇所が狂うと、コンピューター全体がおかしくなります。律法は、その一つでも破れたら、呪いに転じるからやっかいです。これがノモスの厳しさ、ノモスの怖さです。
■律法違反と律法主義
 ところが、わたしたちは、どんなに「律法を守ろう」と頑張っても、ついこれを破ってしまいます。「律法の全部」など、とても守れません。「守れば」祝福になるハズの律法ですが、人間が自力で「守ろう」とすれば、逆に「呪い」に転じるのです。しかも、人間は、自力で律法を「守れる」とうぬぼれるから困ったものです。律法を「自力で守ろう」とするのが「律法主義」、これを破るのが「律法違反」。この二つがセットになって、祝福となるべき律法が呪いに転じるのです。進もうとすれば律法主義。退(ひ)こうとすれば律法違反。律法違反と律法主義のこの板挟み、ここに律法の謎があります。「罪」とは、人間をば、このどちらかに仕向ける働きのことです。だから、この始末の悪い律法を、パウロは「罪の律法」と呼びました(ローマ7章25節)。「なんと悲惨なこのわたし!」(ローマ7章24節)とパウロが嘆いたのが、これです。
 キリスト教は「罪」のことばかり言うから嫌いだと思う人たちがいます。しかし、考えてみてください。犬や猫に罪の自覚はありません。「罪」を自覚するのは、人間だけです。聖書によれば、人間はほんらい善い性質に造られています。しかし人間は罪を犯しました。ほんらい善良だからこそ罪を悟るのです。ある浄土真宗のお坊さんが、「進んだ宗教ほど罪を自覚させる」とわたしに言いました。人類に罪を深く自覚させる宗教は、仏教とキリスト教でしょう。病気を自覚するのは、病気から健康に戻る第一歩です。罪を自覚することが、罪を解決する始まりになるのです。人間には、驚くほどの霊的な能力が具わっています。これを正しく用いれば祝福が来ますが、誤ると恐ろしい呪いに転じます。
■律法と自由
 このように、人を束縛し呪うノモスが人に自由をもたらす。こう言ったら、皆さんは驚くかもしれません。マリナーズのイチローのバッティングは自由自在です。でも、その「自由」はでたらめではありません。一寸一秒も狂わないバッティングだからです。そこには、驚くべき正確な「打法のノモス」が働いています。これは、頭で考えていてはとても間に合いません。彼は、バッティングのノモスを「体で覚えている」のです。だから、ノモスを「守ろう」などと考えません。彼がノモスそのものなのです。ノモスが身に付くと、自由自在です。英会話でも、英文法を「守ろう」などと意識していては、とても英語は話せません。英語の文法(ノモス)が身に付いていれば自由に話せるのです。ノモスは、このように、外から来ると恐ろしい束縛ですが、内側から身につければ自由をもたらす。何とも不思議です。同じノモスが、守られれば祝福、破られれば呪いです。
■イエス様の御霊
 では「律法の呪い」を解決するためには、どうすればいいのでしょうか。わたしたちが律法そのものになるのです。そんなことができるでしょうか? イエス様は、「わたしたちの罪のために」十字架におかかりになって、「律法の呪い」から贖いだしてくださったのです! わたしたちの代わりに、ご自分が「律法に呪われた人」になることで、律法を破る人間に降りかかる呪いをご自分が引き受けてくださったのです(ガラテヤ3章13〜14節/同4章4〜5節)。だから、イエス様を信じ受け入れる者には、呪いではなく、憐れみと罪の赦しが降るのです。イエス様だけが、わたしたちの律法主義と律法違反の板挟みの「律法の呪い」から救い出すことができます。イエス様は、わたしたちの罪を担い、十字架におかかりになり、死んで復活されました。このイエス様の御霊が、わたしたちに働いて、律法の呪いから、わたしたちを解き放ってくださったのです。これが、 神の御子の「恩寵」です。
 恩寵(恵み)の御霊は絶対無条件です。十字架と御復活のイエス様の御霊が、わたしたちの罪を赦してくださるからです(ローマ5章20〜21節)。だから、わたしたちはなんにもしない。なんにもできない。「ハイ」と言ってイエス様を受け入れるだけです。イエス様の赦しの御霊に自分を委ねる人には、もはや、律法の呪いは力を失います。これがキリストの霊法、「御霊のノモス」です。イエス・キリストは復活され、聖霊となってわたしたちに宿ってくださる。イエス様の御霊がわたしたちに働くと、イエス様の愛が働きます。神様への愛、隣人への愛、エクレシアの兄弟姉妹への愛がわたしたちに働いてくださいます。神と人を愛することこそ、律法全体の扇の要(かなめ)です。律法の「全部が」これに含まれているからです(ガラテヤ5章14節)。三位一体の神に働く三間一和の御霊の交わり、これに与る私たち一人一人のイエス様への信仰の歩み、これだけが、コイノニア会の交わりを支える護りであり、安らぎです。
■エリヤの体験
 北王国イスラエルの王アハブ(在位前869年〜前850年)は、北方のシドンの王の娘イゼベルを后にしました。列王記上18章〜19章18節によれば、イゼベルは、カナンのバアルを拝む預言者たちに唆されて偶像を拝み、アハブ王もまた、彼女に唆されて、イスラエルの預言者たちを迫害します。エリヤは、これと闘い、カルメル山で、バアルの預言者たちと対決し、彼らを殺しました。するとイゼベルは怒って、エリヤの命を狙います。恐れを抱いたエリヤは、南王国ユダの最南端のベエル・シェバまで逃れて、その南に広がる荒れ野を歩いて、しだの木の根元で休みます。すると、大風が起こって彼に吹きつけます。この現象も主の御業です。だから、これも神体験の一つです。しかし、そこに、ほんとうの主はおられません。「ほんものの」主のお働きには、大事な主からの「語りかけ」があるからです。それがないのは、たとえ自然体験でも神体験でも、まだ、ほんものではありません。すると、今度は、エリヤの体が地震のように揺れ動きます。それでも、そこに、ほんとうの主は見いだせません。次に、燃える火のようなものがエリヤを襲います。それでも、ほんとうの主を見いだすことができません。こういう霊的な体験の後で、今度は、静かに「ささやくように」主のみ声による語りかけが与えられました。そこで初めて、エリヤは、ほんものの主の後臨在に与ることができました。主の霊は、イスラエルに新しい王を立てるようエリヤに告げてから、こう言います。「北王国イスラエルには、バアルを拝まない主の民が、まだ七千人いるのだよ」と。このように、特に辛い恐ろしい体験の後では、いろいろな神体験が訪れる事があります。しかし、深く静かに語りかける主からの御言葉こそ、ほんものの御霊のお働きなのです。
■福音的霊操
 宗教する人には、特有の傲慢の罪が宿ります。「兄弟を愛する」ことで、「命の光」に歩むためには、主に対する己(おのれ)の「罪の自覚」と、主から降る「罪の赦し」が必要です(第一ヨハネ1章7〜9節)。かく言う私自身も、長い間の己の「死の刺(とげ)」(第一コリント15章55節)を自覚させられて、罪の赦しを求めました。すると、十字架の赦しの御霊の不思議なお働きで、自分の罪業が、イエス様の十字架に「釘付けされて」(コロサイ2章14節)消えていくのを覚えます。パウロが言うとおり、「自分の罪と死が、(十字架の)勝利に呑み込まれた」(第一コリント15章54節)のです。どこまでも、御霊の風に己を委ねると、人をとがめず己を責めず、ただ、ひたすら御霊の驚くべきパワーが働くのを知るのです。身は軽やかに、心は平(やす)らか、神を愛し、人とやわらぐ霊愛の心とは、こういうものかと悟るのです。神様が、イエス様を通じてなされる御霊のお働きは、まことに不思議です。信仰をどこまでも貫くことを「霊的な節操を守る」と言います。だから、イエス様の十字架の贖いの力を受けて、どこまでもこのイエス様に従い続けることを「福音的霊操」と呼んでください。
 
【付加】聖句から
 霊操を促(うなが)す御霊のお働きは、次のように語られています(意訳)。
 
「悪魔に立ち向かえ。のさばらせてはならない。」
            (エフェソ4章27節)
「神から来る御霊を(ないがしろして)悲嘆させるな。あなたがたには、神からの御霊のお働きが啓示されている。霊操を通じて、あなたがたの罪から解放されなさい。」
                         (エフェソ4章30節)
「善い実をもたらさない暗闇に巻き込まれないように注意しなさい。
それよりも、むしろ、闇の働きを(あなたの内で)露わにしなさい。
露わにされると、闇の働きが消え去る。」(エフェソ5章11〜14節)
 
「主にあって与えられる力に強められなさい。その威力は偉大です。」
                    (エフェソ6章10節)
もしも、神と交わっていると言いながら、闇の内を歩むなら、
  私たちは偽っているのであって、まことを行なってはいない。
もしも、神が光にあるように、光の内を歩むなら、
  私たちは互いに交わり(コイノニア)を持ち、
  御子イエスの血が、あらゆる罪から私たちを浄めてくださる。
もしも、自分たちには罪がないと言うなら、
  私たちは自分を騙しているのであって、私たちにまことはない。
もしも、私たちの罪を自白するなら、
  神は、まことで正しいから、あらゆる罪の赦しを私たちに与えて、
  すべての不義から私たちを浄めてくださる。」
               (第一ヨハネ1章6〜9節。)
その女性はイエスに言う。
「『キリスト』と呼ばれる救い主(メシア)が来られることをわたしは知っています。
そのお方が来られる時、私たちにすべてをお告げくださるでしょう。」
イエスは彼女に言われる、
「それは、わたしである(エゴー・エイミ)。現に今、あなたに語っている」。
                     (ヨハネ4章25〜26節)
【補遺】艱難の中に働くイエス様の御霊
    
エフェソ人への手紙の「統括する」こと
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